てやんでい!!こちとら湘南ボーイでい!!

映画音楽本ごはんの話を、面白く書けるようにがんばります

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愛は惜しみなく

   

メンズエステ利用体験忘備録です。
前回→Pynk

彼女とLINEを交換したものの、「連絡先交換しただけで彼氏ヅラしてくるのうざい」と思われるのも嫌で、そんなに連絡を頻繁には取らなかった。
食事やコロチキのイベントで会う可能性が高いので、LINEで連絡を取り合うよりも、実際に会ったときに交流をするのがよいだろうという判断もあった。

後日「コロチキのライブのチケット取りましたー」と報告すると、「私も行けそうだったら言いますね!」との返事だった。
彼女は必ず来るものだと、僕は思いこんでいたので、少し動揺した。
が、そこで会えなくても、食事に行きましょうねーと言ってくれているのだし、コロチキとは関係のない場で会えるだろうなと思った。

風俗に詳しい男性に、彼女を指名した最後の夜について話した。
「それは、お前を最後にしてあるって時点で察しなきゃいけなかったんじゃないの? それはそういうお誘いだよ。男としていかなきゃ」
とのことだった。
「女としてのプライドを傷つけてしまったんじゃないの?」とも言っていた。
それが事実なのかどうかを確かめる術は僕にはもうない。
自分がその機会を作り出せる可能性があったのか、はたまた、この時点でもう、どう足掻いてもそんな風に事が運ぶことなどあり得なかったのか、それすらもわからない。
こういった色恋の沙汰において、「自分にとって不都合な展開になっている」と想像するだけでもつらいのに、その事実を確認しようと思ってとった行動がまた悪い方向に転がっていく原因になってしまうことがある。
それもつらい。
かと言って、何もしなければもっと悪化していってしまうんじゃないかと考えるのもつらいし、何かしたことで実際に悪化してしまうのもつらい。
「何もせずにいて好転していく」こともやはりない。
なんだ、俺の恋愛って辛いことしか起きていなくないか?

彼女が誕生日だとツイートしていた。
その画像にはラッピングされた品々が並んでいた。
ラッピングにはディオールやAesopなどのブランド名が踊っていた。
次に会うときに、何かプレゼントを渡そうと思った。
僕もAesopのアイテムを使うことがあるので、なにか買うならAesopのものがいいかなと思ったけど、Aesop被りを起こしてしまってはまずい。
退職直前の職場で、業務時間中に暇を持て余していたので、会社のPCで何をプレゼントしようかいろいろと探してしまった。
人にプレゼントをあげようとする際、相手が何を受け取って喜ぶかを知っておかないと選定は困難を極める。
渡したはいいものの、不要物であった場合には、ただのゴミになってしまうからだ。
無難に「あっても困らないもの」として、ハンドソープとボディソープを買おうと思った。
僕は結局彼女に会っていないので、もちろんプレゼントは何も渡していない。

彼女のTwitterで、メンズエステを退店することが報告された。
もう友だちになったのだし……と思い、駆け込み予約をすることはなかった。

結局コロチキのライブの直前になっても、彼女から連絡は来なかった。
意気消沈のままライブに行った。
コロチキのライブは正直に言って、全然楽しめなかった。

その日のライブは、漫才のライブが行われた終了してから、一時間後に別のイベントとしてトークライブが行われた。
一時間では渋谷の町をうろついても何もできないと思い、合間の時間も外には出ず、会場のエントランスで時間を潰すことにした。
彼女が現れたりはしないだろうか、と期待していなかったと言ったら嘘になる。
だが、エントランスには誰もいなかった。
みんな、一時間をどうやって過ごすのだろう。
彼女が一緒にいてくれたら、どこかお店には行ってお酒をいっぱいぐらい飲むような時間を過ごせたかもしれない。
取らぬ狸の皮算用。
エントランスには椅子やらベンチなどはないので、僕は壁にもたれて本を開いた。
徐々に人が入ってきていることは視界の隅に入っていたが、きょろきょろしていて目が合ったりしたら気持ち悪がられるので、音楽と本に集中した。
すると、コロチキのサロン会員の方に声を掛けてきてくれた。
全く面識のない人達だったが、僕がオンラインサロンのZOOM配信で顔を出しているので存在を認知していたとのことだった。
ライブの後に、もともと知り合いだった人達にも声を掛けて、一緒に飲みに行った。
顔出ししている甲斐もあるというものだなと思った。
人生、何があるかわからないなと思った。
その時に飲みに行った人とは、特に仲良くなれた。
ありがたいことだと思う。
飲んで楽しく話していることで、彼女の不在を忘れることができた。
そこで知り合った人に心が救われるような思いがある。

後日、東京に映画を観に行く予定があったので、彼女をご飯に誘った。
「それっていつですか?」と返信がきた。
休みがこの辺なので、この辺に行こうと思っている旨を返信した。
それに対しての返信は無かった。

コロチキのオンラインサロンの少人数会というものがあった。
そこで彼女のことを相談しようとしたところ、「メンズエステのことで相談があるんです……」と話したら、「男だけでの会やりますか? ナダルさんと二人で話したらええやん」と返されて、そのまま別の話題に以降していった。
その時は話の流れが汲み取れなかったが、おそらく、性的な話題だから避けられたのだろう。
しかしナダルさんがメンズエステエピソードトークを披露して、女性も全員笑っていた。
ナダルさんがメンズエステに通っていた時期があるとのことで相談をしたかったのだが、そうはいかなかったようだ。
女性会員が「旦那のチンコがでかい」「遅漏だから疲れる」「旦那じゃない人とくっついたりしてる」って話を、通常の会でするのはオッケーなのに、メンズエステの相談はだめなのか……と思った。

その後、コロチキのオンラインサロンの会員さんに声を掛けて飲み会をすることになった。
僕が幹事として動いた。
彼女を誘ったところ、久しぶりに返信が来た。
仕事が想像していた以上に大変らしい。
飲み会の開催候補日程を送ったところ、返事はなかった。
この時の返事が、彼女の最後の連絡だ。
それ以降に送ったLINEは既読になるが、返事がない。

彼女と会えないことが寂しくて、僕は、人と会う機会を増やそうとしたのかもしれない。
醜い動機だ。
僕はこの時に、はっきりと、彼女に振られるべきだったんだと思う。
そして自分自身のことを見つめ直して、女性と関わると言うことについて深く考えるべきだった。
今になっても、彼女に抱いた妄想によって、僕は苦しんでいる気がする。
彼女のせいではない。
僕が女性のことを考えて苦しむ時、それは女性のせいではなく、もちろん僕自身に原因と責任がある。

その後僕は転職した。
メンズエステに通っていた頃にあったような仕事上の悩みからは解放された。
もちろん新しい仕事を覚えたり、人間関係に気を遣わなければいけないので、しばらくは脳が疲れる日々が続いた。

その後、コロチキのオンラインサロンが盛り下がるようになり、ZOOMの会議開催頻度の月に2回から1回になってしまった。
彼女からは返信がない。

メンズエステ彼女のTwitterのアカウントが消えた。
「アカウント消したんですか?」なんて連絡をしたら、僕が彼女のアカウントをヘヴィウォッチしていることがばれてしまうので、そんな連絡はしなかった。
かと言って、彼女が返信してくれそうな話題を見つけることもできなかった。
冷静に考えてみれば、僕と彼女の間で、互いに強い関心を持っていることがわかっている話題は、コロチキしかなかった。
コロチキについての、特に新しい話題もないので、連絡する用件としては弱く、連絡する口実も失われてしまった。
けれど、敢えて言うなら、僕はそういった、好みがあまり近くない人と付き合ったりしたいなと思うことも多い。
共通点があまりなくても一緒にいようと思ってもらえるということは、僕と相手との間に、おそらく強固な絆があると思えそうだから。
取らぬ狸の皮算用。

そのさらにあと、彼女が以前働いていたメンズエステに、彼女のページが復活掲載されていた。
メンズエステに復帰するのか、と思った。
けれどスケジュールは空白なので、出勤している形跡は特に見えない。
けれど、「友だちになれるっぽい」と思ってたけど「連絡が帰ってこない」女性を指名することなどできるのだろうか。
その状態で指名するのって何かしらの法令に反しはしないだろうか。。。

12月頃になって、全部文章に書き出してみたら心の苦しさが晴れるかと思って、記憶の限りをメモにしてみた。
せっかく書き出したのでここにアップしようと思ったが、人様にお見せできる文章として整形するのに時間が掛かるし、自分の文章力が低いこともあるだろうが、自分が感じたことが全然表現できていなくて、書くのをやめたくなった。
そして今に至る。


・何か思ってももう伝えられないだけ

彼女と最後に会ってから、セックスに関する文章を書いて、このブログにアップした。
それを読んだ友人が、いたく気に入ってくれた。
友人からは「あれは、その人へのラブソングだったんだね」と言われた。
そうではないだろうと思ったけれど、心のどこかでそれを否定しきれない自分もいた。
そう言われるとそうかもしれない。
ラブであったのかわからないが、彼女への想いを綴るとラブソングたりえるというのなら、面白い現象だなと想った。
強く惹かれていたなら、はっきりと、「愛だった」と認めればいいのに。
自分の報われなかった想いが、愛だったなんて認めてしまったら、自分が惨めに思えるからいやなのかな。
ただでさえ惨めったらしい人間なのに、あまつさえ、生産性が無く誰にも求められない「愛」まで生み出す人間だなんて、認めたくないのかもしれない。
みんなは、報われない愛を抱いてしまった時、どうしているんだろう。

女性とセックスをした、とのことを少しだけここに書いたら、次の日に、その相手の女性から「もう連絡してこないで」とだけメッセージが届いた。
真夜中に公開して、早朝にはそのメッセージがきていた。
彼女は、僕のブログかTwitterを見ているのだろうか。
彼女にそのことを確認する術はもう、ない。
僕は、自分が傷つくことには敏感なくせに、自分の言動が人に傷をつけることを想定できない。


・苦しい

受け入れてもらえると思っていた感情が、行き場をなくして、自分の胸の中にただ蓄積されていく。
寂しくて悲しくて苦しくて、こんな想いを引きずったまま生きていく自信なんて持てない。
出口も見えない。

オナニーしていても彼女のことが頭をよぎる。
「ほかの男とこういうことをしているんだろうな」と想像してしまい、気分が落ち込む。
失恋において、ただ恋が実らないのと、相手が別の相手を選んだ時とでは、後者の方が心痛は激しい。
本能的なものなのだろうか。
そんな心境でオナニーをしても、驚くほど快楽が少ない。
精子を吐き出す勢いも微弱だ。
しかし、オナニーはする。
射精を終えると、自己嫌悪に駆られて何もできなくなる。
ホリエモンが「寂しい時は風俗に行けばいいんだ」と言っていた。
自分もそうすべきなのかな、と思わなくはない。
けれど、女の人との関わりでできた傷を、女の人に癒やされようとする行為が許されるものなのか、僕にはわからない。
お金で癒やしを買おうとすることは、やはり、卑しく弱い行為だと思っている自分もいるのだ。
そんな自分が、彼女とのコミュニケーションは、ただの経済の交易を超えたものまで発展することができたのではないか、と勘違いしたことが、事の次第であるように思う。
頭が悪すぎる。自意識過剰だ。もう死ぬしかないぞ、お前は。
でも、まさか、踏み出す時には、こんなに大きなリスクがかかっているなどとは思わなかったんだ。

力が出ない。
虚脱感に襲われて、身体の動きが止まってしまう。
歯を磨いていても、シャワーを浴びていても、オナニーしていても、突然お腹と胸に得も言われぬ虚しさが降ってくる。
何もしたくなくなる。
生きることだけで精一杯だ。

ときどき、無意識に呼吸を止めていたことがあった。
呼吸を止めていることに、息苦しさを覚えてやっと気がつく。
こんなに苦しい思いがこれから先ずっと続くのだというなら、生きていたいなんて思えないだろう。
僕が弱すぎるのか?

泣きそうになる。
けれど泣けない。
涙を流せば少しはすっきりするはずなのに、涙は流れてくれない。
思えば、ここ何年も、自分が涙を流すのは映画を観ている時と、本を読んでいる時だけだ。
音楽はとても好きで、感情は動くのに、音楽を聴いて涙を流すという経験はない。
本を読んで泣いた経験は、3年ほど前に『あなたの人生の物語』を読んだ時のものが最初だ。
その後『紙の動物園』を読んで、また泣いた。
それまで小説を読んで泣く意味がわからなかったが、この二作品は、自分にとって特別なものなのだと思う。
そして自分がその二作を読んで泣く理由もわかる。
僕が泣くのは、自分が抱える問題を赤の他人である作家が美しい物語に織り込んでいる時だ。

ここ何年かで、日本の映画では、物語のクライマックスで、主要登場人物が「泣いてもいいですか」と口にして、「いいのよ」と承認されるような内容が多い。
泣いている自分を受け入れて欲しいという欲求が、もしかすると、多くの人の間で潜在的に共有されているのかもしれない。
けれど、だとしても、僕はその人達の抱える孤独感を知ることはできない。
弱い人間だと思われたくない。
メッセージ・イン・ザ・ボトルの示唆って、すごいものだったんだなと思う。
「孤独である」と書いた手紙を詰めたボトルを海に流すが、後日、砂浜には無数のボトルが流れ着いており、どれも「孤独である」と書かれているというもの。
みんな孤独だが、繋がり合えないという現代社会を描いた歌。
弱さを受け入れ合える関係を構築しないといけない。
恋やセックスを介在させないで、そのような関係性を持たないと、多分、僕は、心が折れたときに、本当にだめになってしまうと思う。

前にこういうことがあった時は、食欲が異常に減退した。
食事を取ると、胃が食べ物を入れることを拒むように、すぐにむかむかしはじめた。
職場が一緒だった、15歳ぐらい年上の人妻にそのことを話したら、
「ご飯だけは食べなきゃだめだよ。身体を壊してしまう」
と言われた。
その人妻は、やたらと、サシでの食事に誘ってきていて、なんだか怖かったので、その後連絡を返すことをやめてしまった。
自分はそんな風に、人に不義理を果たしてばかりだ。
僕は人が怖い。
自分が誰かから好意を向けられるような人間だとは思えない。
自虐では無く、本当に心からそう思う。
自分に好意的に接してくれる人がいると、「自分が人に好かれようとして欺くような演技をしてしまったのかもしれない」と思ってしまう。
そうすると、「本当の自分を知ったら嫌悪されるに違いない」と思ってしまう。
別に人生を共にするパートナー相手でなくても、そんな想いを抱いてしまう。
好意を向けてくれているかもしれない人と、どう関わっていいかがわからない。
心が醜くて弱い。
こんな人間が生きていていいとは思えない。本気でそう思う。
そんな自分を誰かに受け入れて欲しいのだとは思うけれど、やはり、そんな自分が受け入れられるとは信じられない。
少なくとも僕は、僕みたいな他者がいたとしたら、受け入れたいなんて思えない。
いつも心が苦しくて不安定だ。
何年もそんな心境のままで過ごしている。
どう生きたら良いのかわからずに何年も無為に過ごした。
この調子だと、また、「周りに追いつかねば」と焦って、足下をすくわれて、どん底にまで落ちると思う。
きっとそれをあと何回か繰り返すうちに、本当に袋小路に追い込まれるだろうと思う。

今、こうして書いてみて、「彼女のことを全部書いてしまおう」と思い至った時よりも執着が薄れていることを感じる。
一度メモとして、彼女にまつわる記憶や、彼女と接する中で自分の中に惹起された感情や記憶についてを書き連ねてみたのだが、それだけで感情が供養されるような感覚があった。
それをこうして、一応文章の体を成す形に整えようという意欲まで持つことができなかった。
言い訳めいたことを、また僕は書いてしまった。

ドライブマイカーの「僕は正しく傷つくべきだった」という言葉が忘れられない。。
傷つくのが怖くて、本当のことを知ろうとしなかった。
ちゃんと傷ついて、ちゃんと癒えるべきだった。
同じことを繰り返さないために。
でも、どれだけ傷ついても、自分が強くなれた気がしない。
賢くなれる気がしない。
そうしていく内に年を取っていくという恐怖感にいつも苛まれている。

34歳にもなって、女性とのことでこんなに自分が弱るとは知らなかった。


・幸せではないが、仕方がない

合計で10万円近く出費し、感情も上へ下へと大きく揺さぶられた。
こんなに感情をぶん回される経験も、久しくなかった。
なのでせっかくだと思い、いろいろ書いてきたが、(500日の)サマーよりも面白い経験なんてできない。
自分の人生で経験する出来事の面白さなんてたかがしれている。
それとも僕が経験したことを、腕のあるライターが脚色しながら書いたとしたら、面白いものになったのだろうか。

ついでに言うと、僕は女性にまつわる事柄は記憶しているつもりでいたのに、もうぼんやりとしたものになっている。
話した内容もあまり覚えていないし、自分自身が考えたことや覚えた感情についても記憶はおぼろげだ。
昔はもっといろいろなことを覚えていられた気がするのに……記憶力の衰えを感じる。
人生において、完全に新しい事柄なんてそうそうないので、記憶を更新できないのかもしれない。
脳みそはさぼりたがりで、記憶容量も限られているので、過去の記憶と似ているものは記憶されず、本当に新しいこと以外は覚えようとしない。

言葉にしようとすると、自分の頭の中にある感覚や記憶をそのままに表現することができず、大事な部分を取りこぼしてしまっている気がしてならない。
(文章にしてみるとあっさりしている、と客観的に思ってしまうこともある)
今回の事柄については自分の頭の中で醸成しすぎたのだろうなぁ。
創作をしていたころにも、同じような感覚に陥ることが頻繁にあった。
考えているけれどアウトプットしない。
というかほとんどの時間は、そのようにして「手を動かせない時間」だった。
こんなに弱くて醜い自分のことを文章にしていいのだろうか。
というか人との個人的なやりとりをこんなところに書いてもいいのだろうか。
法的に問題が無いとしても、倫理的には許されるのか。
というか、こんなことを書いていて、実際の知り合いに惹かれないだろうか、とか。
でも結局書いた。

彼女と接していた時間について思うと、僕自身に興味を持ってくれていたのかはわからない。
彼女は自分のことをたくさん話してくれたけど、僕に質問をしたり話を振ることはあんまりなかった。
僕もあまり自分のことを積極的に話はしなかった。
けれど彼女に惹かれた。
多分、ひとえに、彼女に抱きしめられて幸せだったことと、彼女の容姿が美しかったからなのだろうと思う。
でも、幸せならいいじゃん、と思った。
別の自分のことを理解してもらったりしなくても。
彼女は僕の情報を受け入れてくれたかはわからないけど、僕は彼女に抱きしめられる時に、凄まじいまでの幸福感に包まれるのだ。
この感覚があるなら多分、僕の心は安定できるんじゃないかなと思う。
若いころは、自分が抱える苦悩について「これは向き合わなければいけないものなのだ」と思い込んでいたけど、それよりも日々ただ生きていくことを優先すべきなのだろう、と今では思う。

スキンシップを行うと、相手に対する好意が増幅される。
今後の人生では、スキンシップは慎重に検討しなければいけないと思う。
若い頃の自分は、手に入るものはなんでも手に入れた。
しかし、当たり前の話だが、手に入れた分だけ、負荷も増えてしまう。
そのことに気付いていなかった。
スキンシップによって好意が増幅されたとして、その好意が必ず報われるわけではない、ということを強く思い知った。
もっとも、普通に生活の中で生まれる人間関係において、相手のことをよく知らないうちにスキンシップが行われることなど、ほとんどないわけだが……。

また彼女の施術を受けたいという欲望はある。
しかしここであらためて「新しく勤め始めたエステ店の名前を教えて欲しい」などと言えるだろうか。
他のメンズエステに行けば、彼女と同等のサービスを施してくれて、僕も彼女の施術と同等の幸福感を得るかもしれない。
けれど、僕は行くことができない。

今、彼女に対して何か思いがあるかというと、以前あったような彼女を強く求める気持ちはない。
ただ多分、会いたくないなんてことはない。
きっと以前と同じように話はできると思う。
要は、僕が彼女に抱いていた幻想とか、承認を求める過大な欲求が消えたということなのだろう。
彼女に執着していた要因の中の何割かは、「僕を受け入れてくれるんじゃないだろうか」という幻想が占めていたということなのだろう。
だから「僕が求める形で僕を受け入れてくれることはない」ことがわかった今、感情がフラットになっていたんじゃないかと思う。

こうして何か書こうとすると、一気に、いろんな事柄が混濁したまままとまりがつかず、どばどば書き連ねていってしまう。
ふつうにADHDの特徴なのだとは思う。

僕は考えすぎなのかもしれないが、僕のことを「考えすぎ」と言う人に対して僕が思うのは、「考えなさすぎ」ではないか、ということ。

恥ずかしくて書きたくない(思い出したくも無い)事象もあった。
こんなところであっても、人に曝け出すことができないという見栄の在り方が、僕の抱える問題の根源にあるような気もする(曝け出すという書き方をするのもおかしいかもしれないが)。


・ルッキズム
なんで自分は綺麗な女の人のことがこんなに好きなんだろう、と、自分でもよく考えることがある。
それとも僕以外の人達も、僕と同じように綺麗な女の人のことが好きではあるが、それをうまく隠しながら生きているというだけの話なのだろうか。

初めて付き合った女の人が、かわいい容姿だった。
肌が真っ白で、髪の毛がさらさらで、目がとても大きくて、鼻筋が細くて高くて、歯並びが綺麗で、唇が薄くて、ついでに言うと胸が大きかった。
一緒に歩いていると、すれ違う男が彼女を振り返ることが何度もあった。
「一度美人と付き合ってしまうと、恋愛のパートナーに求める容姿の基準が上がってしまう」という話をすることがある。
醜い話ではあるのだけど。

僕は容姿の美しいパートナーが欲しいのだとは思う。
自分の容姿が嫌いだ。
自分の容姿について、父と兄からはけなされてきたし、母と祖母からは過剰に褒められてきた記憶がある。
今となってはどちらも吐き気を催すような記憶だ。
自分の容姿について、何も感想を抱かないような人がいい。
自分の容姿を好きになって、褒めてほしいとはあまり思わない。

自分は暗いことばかり考えているから、明るくて楽しい性格の人がよい。
容姿が美しくて、明るい性格の女性が、自分を受け入れてくれるのかもしれないと思ってしまったが最後、多分僕の理性のダムはすぐに決壊してしまい、相手は「こんなに変な勢いで来られては無理だわ」と引いていってしまうのではないか。

綺麗な女性と接して、その女性が自分に対して好意を示してくれていると思ったが最後、僕は、恋に落ちない、ということが無理なのだろうと思う。
自分には精神的な基盤がないので、多分、人間関係においてバランスを取ることが難しいのだと思う。
「ただの友だち」でいることができないのだろう。

綺麗な女の人に受け入れてもらいたい。

自分の欲望の入れ物を探しているだけなんだ。
そんな自分の醜さに、自分で耐えられない。
年を取れば取るほど、かっこ悪いと思われずにいたいという構えになりがちである。
でも、同時に、「人を愛したい」と思っている自分のことを、自分はそのまま受け入れなければいけないのだろうと思う。
でも、それは愛ではなく、支配する対象を欲しているだけなのかもしれない。
結局自分のことがわからない。
「愛する」と決めて、相手が愛だと感じてくれるような行動を取る覚悟を決めて生きてみたいとも思う。


・i 僕/俺

自分の恋愛関係や人間関係観はここ数年で大きく変わった気がする。
二十代の頃に打ち込んでいた創作活動をする中で、何人か大切な友人ができた。
しかしその後、創作活動をしなくなってからは段々と疎遠になったり、ある機会で縁が途切れてしまうことがあった。
その友人との離別を乗り越えようと思って、なにかを書こうとしたが、結局ものにならなかった。
そんな喪失感や敗北感から、今も逃れることができていない。
ひどい一年だったのだなと思う。

コロナになってから活動が制限されることも多かったし、ストレスは増した。
そう考えると、自分にとって2020年から今に至るまで、散々なことが続いている。
社会的に決して景気がよくはないので、自分も仕事を失うかもしれないという不安にも苛まれた。
もしかしたら、みんな口には出さないけど、そのように大きな喪失を経験したり、経験できるはずだったであろうことが起こらなかった空白のような時間を過ごしていたのかもしれない。
あとになって振り返ったら、コロナ渦ってそういうものなのかもしれない。

恋愛観について言うと、3年ぐらい前、31歳の時に、「自分にはこの先の人生で恋愛はないだろうな」と腹を括った。つもりだった。
年齢的な問題もあるし、自分に姪御ができて、彼女をかわいがるうちに、「結婚して子どもを作る相手とじゃないと恋愛はしないほうがよさそうだ」と思うようにもなった。
妹は覚悟を持って結婚して、子どもを作ったはず。
そんな彼女の決断の末に生まれた子どもを、僕は自分が子どもを作りもせずに愛でるだけでいるのは、卑怯なことのように思えた。
結局結婚しないままに女性を付き合ってきた二十代での恋愛経験が尾を引いているようにも思う。
自分勝手にわがままに付き合わせて、僕は、恋人の時間を浪費させてしまったと思う。
女の人に頼ってたんだなと思う。
週に五日働いて、創作をして、それでも心の拠り所として女性を求めた。
頼っていたというか、都合よく寄りかかったり当たり散らしたりする相手にいてほしかっただけなのかもしれない。

人間関係観、および恋愛観の変化を経て、「女性と安易に近づいてはいけない」と思うようになった。
けれど、「女性に甘えたい」「女性に承認して欲しい」「愛し合っているという感覚に包まれていたい」「性的な欲求を特定のパートナーと満たし合いたい」といった欲求が消えたわけではなかった。
けれどパートナーを作るような動きはしない。
そういう状況にあったので、多分、女性との縁ができた際に過剰に期待したり依存したりしてしまったんじゃないかと思う。
あと、男性ともコミュニケーションを取る機会が減っていたので、承認欲求が満たされない状態になっていたのだろうとも思う。

もっと人とコミュニケーションを取って、脳が取り入れた情報を外に出していったほうがいいのだと思う。
コミュニケーションを取る人間(友人)が少ないし、コミュニケーションを取る相手に対しても、自分が考えたことや思ったことを言わないことも多い。
「なんでも言える人」が僕には一人くらいしかいない。
ただ、それでも、かっこつけようとしてる自分の気付いて辟易とすることがある。
「なんでも言える人」を持つことを望むよりも、「半分くらいのことは言える」人が複数人いればいいのだとは思うのだけど。
それでも誰にも言えないことなのだと思ったら、それは飲み込んで秘密にしたまま背負っていくべきことなのかも、と思う。

でもみんな誰しも多かれ少なかれ、「秘密」があるのだと思う。
自分の周りでは不評な『花束みたいな恋をした』で、主人公の二人がデートと覚しき逢瀬があった日の夜に、夕食は部屋に帰って一人でとっているシーンがあるが、あれは、離別を経て人と深い関係を築くことができなくなっている20代後半の社会人あるあるを描いたものなのだと思う。
とはいえ20代後半の若い者よりも、僕は10から5歳も年をとっているわけなので、そこと比べてどうするのだという話ではあるのだが。

でも34歳にもなって、将来を見据えずに交際をするという感覚になれない。
歳が近い人とは、感覚は近いのだと思える。
おそらくではあるが、30歳を過ぎて結婚をしていない人がそもそもあまり多くはない。
彼女の年齢が、僕とけっこう近かったということも、おそらく、彼女に惹かれた要因でもあるのだと思う。
甘えたいんだろうな、と思う。
パートナーがいない同年代女性の割合は少ない。
美人であればなおさら(失礼すぎることを書いているのは承知しています)
年下に甘えるという開き直りができればまた違うんでしょうけど。
自分の環境と、自分の願望とがうまく噛み合っていない。
そのことにいらだって、結局、何も上手く遂行できない。終わってる。

別に、「付き合ってみて、違う気がした」と思ったら、話し合えばいいし、話し合っても歩み寄りきれなかったり、感情を抑えきれないのであれば、別れればいいだけの話ではある。
けどそんな営みを、30代も半ばになっても繰り返したくない。
でも「別れるのかも」と思って人との交際に踏み出さずにいるくらいなら、まず交際をしてみてから考えた方がいいような気はする。
付き合い始めてからでないと見えてこない・見せられない面ってたくさんあるものだと思うし。
みんなけっこうそんなループの中にいるように思う。
何度も繰り返して、やっと、そのループを脱することができるのだろうとも思う。
失敗するのが怖いから挑戦しない。よくない態度だと思う。
それではいつか袋小路にまで追い込まれて、本当に身動きが取れなくなる。

自分のような人間が人から愛されるとは信じられない。
僕のことを知ったうえで愛してくれる人間がいるとは思えない。
本心からそう思う。
他の人々と比べると、僕の就く職業は社会的に地位が低い。
また、会社にはよるけれど、「高収入」になるためには会社の幹部クラスにまで登り詰めなければいけない。
多分僕は、社会の中で他者からどう見られるか、ということを気にせずにいられる人間になることはできないだろう。
人と話していると、「あぁ、社会の一般的な男性像と比較されているな」と感じる瞬間はとても多い。
自分の気にしすぎか?
しかしそれを気にするのも、「平均的な男性像・女性像」と照らし合わせながら人を査定している自分がいるからだろう。

このように「お金」「社会的な地位」「安定した職業」という指標を持ってしまうのは、僕が二十代半ばの貴重な期間を創作に費やしてしまったからなのだろう。
そこで遅れを取ってしまったという感覚から、無駄に焦りだけが募っているように思う。
創作や、映画と音楽の鑑賞も、ここ3年ほど全く手をつけられていない。
「死んではいないけれど、生きてもいない」状態だった。


・壊した家を出たくせに 今私達は新しい家をつくる

僕はコミュニティを見つけては離れていく。
それを繰り返している。
二十代の頃に属していた創作関係の界隈でも、一度は友人がたくさんできて(多分)楽しんでいたけれど、結局そこを離れて、数年間は、人との交流がほぼほぼない時期を過ごした。
僕はとてもいびつな人間で、僕がそのまま承認される場所なんてない。
けれども僕はそんな場所を求めている。
僕のままでいられる場所ではないとわかると、そこにはいられないと思ってしまう。
僕はわがままだ。
本当は、誰か一人に完璧に受け入れてもらおうとするべきではない。
受け入れてもらおうとするなら、いろいろな人に少しずつ受け入れてもらうべきなんだろう。
田中宗一郎さんが、「自分にもオノ・ヨーコのような女性がいるんじゃないか」と思い込んでしまっていた過去について話していたことがある。
僕も全くその通りなのだろう。
けれど、そのオノ・ヨーコだって、レノンに見切りをつけて、一時期別々に暮らしていたことがある。
あり得ない幻想なのだということがわかる。
けれど僕はその幻想を30代も折り返そうという今に至るまで抱き続けていて、捨てられずにいる。
自分と違うのは当たり前なのに、それを受け入れられない時がある。
誰にでもそれはあることなんだろうか。
わかって欲しいのに、わかって欲しいと言えない。
わかってもらえないことが怖い。
わかってもらえたとしても、そのうち相手が別の理由で離れていってしまうかも知れない。

「僕は完璧に理解している ここは僕のいるべき場所ではないということ」。
「僕は泣きたいよ」。
「今にも僕は泣きそうだよ」。

全部を受け入れてもらおうとしている。
全部を受け入れてもらうことが叶わないだろうから、自分のことを人に知られることを嫌がるようになっている。
勝手に否定されたような気になっているだけなのだろうと思う。
自分と違うところがあることがわかると、近づいても、その違いによって離別や傷心が生まれるのではないか、と思っている。
自分がそういう考えだから、相手もそういう考えなんじゃないか、と疑ってしまう。

そんな風にして、また、場所から離れたくなっている。
弱くてわがままだ。
けど、「違うことを受け入れる」考え方をどのように習得すればいいのだろう。
それはわからない。
今何も得ていない状態で考えると、「まぁ少しの違いがあったとしても、平気で受け入れられるだろう」と思いはするのだが、いざ人と接して仲が深まっていくと、違いが許せなくなる。
僕はいびつで、そのいびつさを改めて思い知らされるのが辛いのだろう。

でも、みんな多かれ少なかれそういうもんなんだろうな、とは思う。
SNSで複数のアカウントを持つことが当たり前の時代。その弊害(あるいは恩恵)か。

自分の精神の特異性は、自分に精神的な基盤がないことに由来するものなのではないか、と思う。
私の誤算。
相手が自分を求めているのではないか、という勘違いを起こす。
そこから自分の中での距離感の測り方がおかしくなるのだろうと思う。

今回の思ったのは、自己顕示欲も歪んだ形で持っている気はする。
多分僕は、パートナーがいるか、もしくは人からパートナーになりたいと思われていたいし、そのように周囲の人にも認知されたいんだろう。

でも、「自分に居場所がない」ということは身に染みてわかってきたので、少しずつ、コミュニティの中での立ち振る舞い方を変えてこれたかなとも思う。


・世界を変えることができないなら 君が変わるしかないんだよ

こんなことをくだくだと書き連ねてみても、多分僕は変わらないだろう。
人に言えないことで悩んでいる。
悩みを解消することは難しい。
悩みを解消できない弱い人間だということを曝け出したくない。さらけ出せない、ということもまた一つの悩み。
こじれてんなー、とは思う。
でも人に迷惑を掛けないように心がけているだけ、マシではないかとは思うが、どうだろう。

普通の人が当たり前にやっていることがロクにできないなんて、生きていてもしょうがないんじゃないかと思う。
自分の生き方ではこの先立ちゆかなくなることはわかっている。
でも自分はこれ以外の生き方がわからない。
こんな風に生きていたくはない、けれど死にたくはない。
いつか「死にたくはない」という気持ちが薄れた時には死ぬのだと思う。
生活の糧(金)を得るための技能や意欲が自分にはあまりない。

なんとなく、自分が変わるためには、映画を観て本を読む行為を繰り返していくしかないのかもしれないと思った。
他人は僕を変えてくれるけれど、僕は他人が怖い。
音楽や映画や本には、人の思いが強くこもっているし、僕が好きなときにアクセスすることができて、自分の思わしくない干渉はされずに済む。
音楽や本や映画は、僕が手放さない限り、僕から離れていくことはない。(全ての場合においてそうだとは言えないが)

なので、仕事か、創作か、このように文章を書くことで自信を持てれば、多分僕の精神は安定するのだろうと思う。

・僕の病気に触れ

僕は自分のことですぐにいっぱいになってしまう。
少しは他人の気持ちや立場のことを優先して考えようとしなくてはいけない。
ただ、『海がきこえる』の「私以外の人間が私の面倒を見てくれないのだから、私が私のことを考えて何が悪いの?」という言葉に共感を覚える自分もいる。
問題が多すぎる。
性欲が強く、承認欲求と自己顕示欲が強く、むやみに優越感があり、自分を善良な人間であると信じ、すぐに苛立ち、裏切られたような気持ちと疑心暗鬼にかられる。
すぐに他社に対して否定的な感情を持つ。
歯並びが悪く、骨格が悪く、鼻炎があり、口臭があり、肌が汚く、皮脂と汗の分泌が多く体臭はひどいものだ。
頬骨が張っていて、顔は左右非対称、目の形が左右で違い、鼻がつり上がり、唇は無為に厚い。
怠惰で、仕事の手を抜く。
人が、僕のことを信頼して任せてくれた仕事であっても、やはり、全力で挑むことができない。
空想癖があり、仕事をしている時間でも、何もせずにぼんやりしている。
家にいるときでも、勉強であるとか、自分がやるべきだと思っていることに着手しない。時間を無為に費やしてばかりいる。もう10年以上も無駄にした。
家族全員との関係が悪く、修復は望めない。望みたくない。戸籍から籍を抜くだろうと思う。

痂皮のある女性が好きなのだと思う。
僕は家族との関係がネックだ。
愛情の交易目的でないセックスの経験が多いことがネックだ。
「恋人」として関係している人がいるときにも、他の女性とのセックスを求めたことがある。
そしてその時はそれを誇っていたフシがある。
そんな人間だ。
現在の自分は収入も低く、すでに30代も折り返そうという年齢。
過去に打ち込んでいた創作も今は行わず、映画やシナリオや音楽の考察もほとんどしていない。
自分に自信が持てる部分がないのに、ネックが多い。
だからきっと、相手にも痂皮を求めるのだろう。
相手も何か負い目があれば、負い目を持つ僕のことも受け入れてくれるのではないかと期待出来る。
そう意識しているわけではないのだが、でも、自分が女性を見る時に、そういった判断の目が働いていないとは思えない。
醜い人間だ。
ただ、岡田斗司夫さんが、「僕たちはわけあり物件を探している」という話をしていたことがある。
美人で人格者であれば恋愛市場では一瞬で払底するが、「ワケありの美人」であればチャンスがあるかもしれない、といった話だった気がする。
僕が書いたようなことは、僕だけが思っていることではないのかもしれない。


・ここにしか吐き出せない
長々と書いてきたが、彼女に対する自分の感情が「愛」や「恋」に相当するものなのか、自分では今でもわからない。
性欲と承認欲求が満たされる関係を望んでいるだけなんじゃないか。
ただ、多くの人がパートナーに抱いていると思っている「愛」から、その二つを差し引いたときに、果たして何が残るのだろう。
わかってる。
それでも「相手のことを愛している」と言える人が大半だろう。

そもそもの話ではあるけれど、自分がこれまで経験してきた女性との関係が「愛」や「恋」なのか、判断することができない。
青臭い考えであるかもしれないが、それが本音だ。

性欲と承認欲求を除いてみることができたとして、楽しいとか安心感とかで考えてみるべきなのだろうな、と思う。
かわいい、美しい人を見ていたいという欲求と、その「かわいい」という価値を持つ人から承認されることで、自尊心を底上げできると考えているのだろう。
自分でもこんな自分が嫌だ。
でもどうやってやめたらいいのかがわからない。
でも、「かわいいと思う対象とコミュニケーションを取ることを喜びと感じる」という事実についてはどう思うべきなんだろう。
「かわいい」に高い価値があり、その価値を持つ人から承認を得ることで自分自身も承認を得たような感覚になるのかな……とも思ったりするけど、そういったことではなく、「かわいい人」とコミュニケーションを取ると楽しいと感じる。

こういうことを、語り合える友だちがいないので、僕はこれから、このブログに、自分の持ったことの8割ぐらいをたたきつけていこうと思った。
吐き出さないと心に情報が積もっていく一方で、脳の動作が遅くなる気がする。

脳の動作を過ごしでも速めることができるようになったら、創作をもう一度やってみたいと思っている。
自分が死んでいた数年の間にも、創作を通して知り合った人に、「とにかく何か作った方が良い」と言われた。
上手く創作ができず、不能感を覚えていた僕は「でも上手くできないと思う」と伝えたが、何人もが異口同音に「下手でもいいから作れ」と言ってくれていた。
そこまでのことを言ってくれた人には報いなければいけないとは、ずっと思っている。

仕事を安定させるところまで持っていく。
それと平行して、一人での生活を始める。
脳の情報の排泄として、ここに何かを書く。
それから創作する。

オチはない。
強いて言えば、彼女のことに限らず、人間関係について思ったことは、誰かを傷つける可能性があるので、ここにも書けない事象ばかりだなと思う。これを書いた後にも、僕は懲りずに、死にたいような想いを引きずることになっている。

 - メンズエステ, , 日記

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