てやんでい!!こちとら湘南ボーイでい!!

映画音楽本ごはんの話を、面白く書けるようにがんばります

*

LA LA LANDのすべて 別れからラストまで

   

・起死回生
セブがベッドで寝ていると、スマートフォンが着信を知らせます。
(セブが携帯電話を持っていないとすれば、これまでの「携帯持ってないのかよこの二人!」という疑問も解消できたのですが、持ってるんですよね(笑)。ここのところ、「未だに固定電話の回線を引いている」ということで解決できたような気もするのですが……たとえば未だにダイヤル式の電話を使ってるとかね。まぁいいや)
「ミア・ドーランがこの電話で捕まるって聞いたけど」
「今はもう違う」とぶっきらぼうに答えるセブ。
「じゃあできたら伝えて。キャスティング事務所ですが、オーディションに参加してほしいと」
どういうシチュエーション……? という気はしないでもないですが、そんなことは関係ありません! 面白いんだから!
セブはベッドから跳ね起き、「……オーディション?」と聴き返します。
このセブの動き、良いんですよ。
打ちひしがれて、精神的には死んでいたセブが、再び息を吹き返したように見えるんですね。
フェニックスなんですよセブは!
何度だって蘇るのです。
なぜセブに連絡が来るのか、ちょっと意味がわかりません。
けど想像力を働かせればいろいろわかることもあります!
オーディションに応募した時の履歴書の緊急連絡先がセブの番号だったとか、劇場を借りるためにセブが保証人としてサインしていたとか、その他いろいろです。

・再会
実家のテーブルで両親と夕食をとっているミア。
親父さんが電球の様子を気にしているような動きをしますが、なんなんでしょうねこれ……わからん。
すると突然、家の外からクラクション音が。
しかも鳴りやまず、ビーーーーッと音が近所中に鳴り響き、近所の犬たちが吠え出します。
まさか……という表情で窓に近付くミア。
ブラインド越しに窓の外を見ると、通りの向こうにセブがいて、自分の車のクラクションを推しっぱなしにしているのが見えます。
向かいの家から出てきたおじさんに「うるせーぞ!」と雑誌を投げつけられています。
そしてセブはミアに気付き、大きく手を振ります。
この時の動き、めっちゃいいですよね……。
セブがクラクションを鳴らすシーンを何度か見せてあるので、クラクションの音が鳴った時点で、観客は、彼が来たのだということがわかるんですよ。
脚本上手い……。
実際には、二人が別れてからそんなに日は経っていないと思われるのですが、ミアが実家へ帰っていくドライブのシーンを長めに見せているので、二人の再会が久々であるように見えるんですよね。
映画のマジック。

そしてミアは家を出てきて、セブと話します。
「キャスティング事務所から連絡があった。キャスティング担当が君の舞台を気に入って、オーディションの参加してほしいそうだ。しかも大作映画だ!」
とオーバーなリアクションで伝えるセブ。
舞台に挑戦したが事は、無駄じゃなかったんですね。
「行かないわ。もうたくさんよ」
表情からも、ミアに行く気がないことがわかります。
「なんだと!?」
セブはクラクションに負けないくらいの大きな声を出します。
これ、本当にいいです……。
多分セブはかなり感情的な男なんですよね。
部屋で些細な行き違いから口論になってしまうシーン、「もうちょっと落ち着いて話し合えばいいのに……」って傍から見ると思ってしまうんですけど、それができない。
勘違いとか思い違いとか言葉の受け取り違いを整理したり、自分が相手に歩み寄るってことを考えられなかった。
その感情的……というか様々な感情が大きすぎる部分が、ここではプラスに働こうとしている。
まぁ近所迷惑ですけど……。
「ちょっと! お願い、静かにして!」
この時の「お願い、静かにして!」というミアの動き、めっちゃいいですよね……。
「なら納得のいくわけをいえ!」
「しーっ! しーっ! せっかくオーディションに行っても些細な理由で中断される、無く演技で審査員が笑ってる、私よりきれいで出来そうな女の子がいっぱいいる……」
「なぜだ?」
そんなことは理由になっていない、とばかりに、さらにミアの内面を掘り下げるように質問を重ねるセブ。
実はこれって、洗脳に繋がるテクニックの一つですよね。
「私には才能がないのよ」
「君にはある(Yes you areと言われていますね)」
「ないわよ」
「君にはある」
セブはここで、弱気になっているミアに対して、才能があると言い続けます。
口論のシーンでは、「あなたが人に好かれたいの?」と言ったミアに「女優の君がそれを言うのか!」と激昂しながら反論しました。
女優や女優志望者に対して否定的な意見ではありますが、それはセブの本心から出た言葉。
職業や、女性そのものへの蔑視的な感情から来ているはず。
しかしだからと言って、ミアの才能を否定していたわけではなかったんですね。
「私はただ女優に憧れていただけ。他の多くの女の子たちと一緒だったのよ」
「君は赤ちゃんだ。ピーピー泣いてばかりで」
「あなたは夢を諦めて大人になったわ。私ももう疲れた」
ミアは自嘲的に笑い、鼻をぬぐいます。
「オーディションは明日の5時からだ。俺は明日の朝8時にここに来る。君が出てこようと、来るまいと」
そういってセブは車に乗り込みます。
「どうして私の家の場所が分かったの?」
観客が思っていたであろうことを、ミアが質問します。
「図書館の前だ」
そう言ってセブは走り去ります。
そこは確かに、ボールダーシティ図書館のすぐ目の前でした。
ミアの職場で再会した後の会話の中で、「家の前の図書館でやっていた古い映画をよく観ていた」という言葉がありました。
そしてミアはボールダーシティ出身……それらの情報から、ミアの実家がどのあたりかということを割り出して、セブはミアに会いに来たのでした。
パーティの後、ミアの職場に行ったのと同じことを、セブがまたやったわけですね。
もう、激キュンですよ!!!!!

ここのシーン、「ミアに電話で知らせりゃいいじゃん」という話でもあるのですが、人を説得する時って電話やメールよりも、直接会って話した方が成功確率って上がりますよね。
単純にドラマとしても、二人が合って話していた方が、イイ感じになりますしね。
あと、もしかするとこの時のミアは、携帯電話を止められているか、解約している可能性があります。
「劇場の使用料も払えない」といったセリフがあった通りで、一文無しになっているかもしれないんですね。
だからキャスティング事務所も、ミアに繋がらなかったからセブに電話してきたのかもしれないです。

このシーンも、もうちょっと台詞があったはずなのですが、思い出せません……。

・洗脳テクニック
セブがミアに「オーディションを受けに行かないわけを言え」と迫るところ。
ミアが理由を言っても「なぜだ!」という問いを続けて投げかけていますね。
上でも書きましたけど、これは洗脳のテクニックの一つですよ。
洗脳という言い方をするとカルトじみているというか、自分とはかかわりのない世界の事象のように思う人が多いはず。
ですが、条件さえそろえば、人は必ず洗脳されてしまうんですよ。
洗脳という言い方ではなくても、マインドコントロール……人の心を特定方向に誘導するテクニックを思い浮かべてみるとわかりやすいですよね。
洗脳っていうのは眉唾話ではなくて、軍事的に用いられる戦術でもあるので、精度の高いメソッドとして開発されているんですね。
セブはミアに「なぜだ」という疑問を投げ続けます。
これも洗脳のテクニックの一つです。
だって、「なぜだ」に答え続けようとすると、途中で答えなんてなくなってしまうからです。
たとえば、ミアの言う「女優になりたかっただけよ」という言葉に対して、セブが「なぜ女優になりたかった」とさらに問うとします。
「昔から叔母と一緒に脚本を書いたり演じたりしていて楽しかった」というのが答えだとします。
そこへさらに「なぜそれが楽しかった? なぜ楽しかったからといって女優を目指した?」という質問が続いたとしたら、ふつう、自分でそれを答えられるでしょうか。
ふつうの人は、答えられないですよね。
けど考えようとすると思います。
自分で考えてもわからないことを、「それは〇〇だからだ」と答えを提示するというのは、一つの洗脳テクニックです。
そしてその答えは往々にして、正しいかどうかを判断するのが難しい事柄です。
ぶっちゃけて言うと、正しい答えを提示する必要はないんです。
質問されている側は、この時点でアイデンティティが揺らいでいるので、答えの正否を吟味できない状態になっているんですね。
もちろん「人に質問をし続ければ洗脳できる」という単純な話ではなく、成立させるための条件はあります。
一つ例に挙げると、相手に対し、質問者の方が立場が上であるという前提の認識が必要ですよね。
ミアはセブに先に惚れた側であり、夢を追う姿勢やジャズへの愛情といった尊敬できる部分もあるので、ここではミアはセブの話をちゃんと聞く準備ができていますね。

ここで、「洗脳」について掘り下げたのは、セッションの主人公と指揮者の関係がまさに洗脳だったからですね。
主人公が指揮者のチームの練習に初めて招かれた際、指揮者は、主人公のドラム演奏のテンポが狂っていると叱責。
主人公は何度も何度も同じフレーズを叩かされます。
そして終いに、指揮者は主人公の頬を何度も打ちます。
「1,2,3,4と口でカウントしろ」
「1,2,3,4……」
「お前のテンポは遅かったか、早かったか。わかるまで打つぞ!」
「わかりません」
ビンタ。
「カウントしろ」
「1, 2……」
ビンタ。
「どっちだ」
「早いです」
というような具合。
もしかしたらこの時、指揮者は、早いか遅いかなんてどうでもよかったのかもしれません。
ただ、自分がこのチームの音を全て掌握しているのだということを思い知らせるためにやっていたのではないかと。
このシチュエーションで言えば、主人公は、「早いか遅いか」を確認する術がないのですから、「自分が間違っていた。指揮者が正しい」という認識だけを植え付けられてしまうのです。

たとえば会社などの組織で、ミスを起こした人に対して再発を防止するための指導をする時に「なぜミスをしたか」ということを自分で考えさせたり、書かせたりすることってないでしょうか。
これも一つのマインドコントロールですよね……。
(こーいう場合もやはり、ミスを起こした人が挙げる「ミスの原因」とは違うことを指摘するという後だし先方が取られることって多いですよね)

セッションの鬼指揮者のキャラクターは、チャゼル監督が高校時代に在籍していたバンドマスターが原型だといいます。
そしてそのバンドは実際に大会でも優秀な成績を収めていたそうです。
常軌を逸したような人によって、通常では不可能な能力の引き上げができるかもしれないという考えがチャゼル監督にはあるのかもしれないですね。
こうして監督作の2つどちらにも洗脳メソッドが出てきているので、一つの作家性だよなぁと思いました。

・運命の朝
翌朝、セブはミアの家の前にやってきます。
8時に迎えに来ると約束しました。
そして時計を見ると、時刻は8時5分……。
セブは諦めて車を発進させます。
……というところで、ミアが車のドアを開けようとして、セブがブレーキを掛ける。
「コーヒーを買ってきてたのよ」
ミアはコーヒーの入ったカップを2つ持っています。
「……いいね」
ミアがシートに座り、今度こそセブは車を発信させます。

そもそも待ち合わせ時間に遅れるミアもちょっとダメなんですけど、5分過ぎたくらいで去ろうとしてしまうセブにちょっと違和感がありませんか?
昨日、あれだけ強引にミアの本心を引き出して説き伏せようとしていた男のすることとは思えません。
家のドアを叩くなり、これまで通りクラクションを鳴らすなりすれば、ミアを連れ出すことができたかもしれません。
ですが、逆に考えると、昨日の時点でセブにできることは全てやってあった。
だから今日ミアが自発的に出てこないのであれば、セブは諦めようと決めていたということではないでしょうか。
セブも無駄な自信に満ちているわけではなくて、本当はミアを連れだせる自信がない。
けどそれを隠したまま説得をしていたんですね。
激キュンですよ……こんなもの見せられて、ライアン・ゴズリングに説得されたいと思わない人がいるのでしょうか?
いや、いないですよ!

・魂の死
ミアが実家に帰りついた時に、母親に抱きしめられていました。
家族から受ける抱擁というのは、実はチャゼル作品で度々描かれています。
そして描かれ方は、共通しています。
基本的に、主人公は家族からの抱擁を跳ねのけて、自分の目標に向かう道を選択するのです。
まずグランド・ピアノ。
この作品で、主人公は自分を殺そうとしている相手と格闘を繰り広げ、その相手と共にコンサート会場のピアノの上に落下して大けがを負います。(トンデモですがほんとにこういう話)
警察や救急車が来て、コンサートは中止になり(まぁ最終曲が終わったあとだったけど)、観客たちも会場から出されてしまいます。
満身創痍になった主人公を、妻は優しく抱きしめます。
一度は安著を覚えて目をつむるものの、主人公はすぐに目を見開き、妻の肩越しにピアノが置かれたトラックを見ます。
亡き師匠の遺した伝説のピアノも、主人公と暗殺者のせいで壊れかけています。
しかし主人公は、妻の抱擁から抜け出して、そのピアノと二人きりになります。(妻は追いかけてきません)
主人公は調子はずれの音しか出さなくなったピアノの鍵盤を叩き……そしてピアノから「カチャン」と何かが外れるような音が鳴り、映画は終わります。
先にも書きましたが、師匠の遺した遺産の金庫の鍵が出てきたのでしょう。
『限界まで自分を追い込んだ先に、他の人々が見つけられなかった何かを得られることがある』
というようなメッセージの映画です。
こう書くと、セッションを観たことがある人は、僕がこの先に何を書こうとしているかわかりますよね。

セッションの後半で、主人公のドラマーは音楽学校から退行処分を受け、また、鬼指揮者であるフレッチャーも虐待行為の責任を問われ職を追われます。(主人公が弁護士に証言したことも後押しとなりました)
その後、主人公は街で行われていたジャズフェスティバルに一人で遊びに行き、フレッチャーと再会します。
学校での鬼のようなしごきっぷりとは異なり、フレッチャーは主人公に優しく語りかけます。
そして、今フレッチャーが指揮を務めるバンドのドラマーが使えないから、代わりに叩いてほしいと打診します。
「曲はあの頃にいつもやっていたものだ」と。
主人公はその場では返答をしませんでしたが、結局引き受けます。
そして演奏の当日、フレッチャーはバンドのみんなに向かって「このコンサートにはスカウトマンが大勢来ている。スカウトマンは一度観た顔を忘れないぞ」と伝え、指揮を高めます。
主人公は自分の父親も招待していて、やる気満々です。
そして全員が舞台に上がったあと、フレッチャーは主人公の前に来て「俺を舐めるんじゃないぞ。密告したのはお前だな」と言います。
主人公が茫然としていると、フレッチャーはそのまま客の前に出ていきます。
そこでフレッチャーの口から発せられたのは、主人公が全く知らない曲名でした。
当然、主人公は演奏に全くついていけません。
フレッチャーは自分の退職のきっかけを作った主人公に復讐するために罠を張ったのでした。
曲が終わると、主人公は失意のまま舞台を降りていきます。
そんな主人公を客席から見ていた父親は、舞台裏に回り、降りてきた主人公のことを抱きしめます。
主人公はしばし抱擁を受けますが、やがて、何も言わずに舞台に戻っていきます。
父の「何をするつもりだ?」とい問いかけにも答えないまま。
周りのメンバーも主人公をいぶかしむように見ているし、フレッチャーは「今さら何をしに来たんだ」と言わんばかりにもう興味もなさそうな視線を向けます。
しかし主人公はその目をものともしないまま、勝手にドラムの演奏を始めます。
隣に立っていたベーシストに向かい「僕が指示を出す。キャラバン!」と曲名を告げ、演奏に参加させます。
ベーシストが曲に参加すると、今度はピアノが入ってきます。
もう演奏を止められないと判断したフレッチャーが指揮を取り始め、バンド全体がキャラバンの演奏に入ります。
フレッチャーは演奏の最中も主人公を恫喝しようとしますが、主人公はシンバルでフレッチャーの顔を打ちます。(どんだけシンバルの近くに顔を寄せてんねん……というツッコミをしてはいけません)
そしてキャラバンが終わる頃には、フレッチャーも笑みを浮かべています……主人公は父親殺しを成功させたのですね。
しかしバンドの演奏が大団円を迎えた後も、主人公は演奏を続けます。
フレッチャーが「どういうつもりだ?」と止めに来ますが、主人公の真剣なまなざしを向けると、頷き、主人公のすぐそばで指揮を執り始めます。
完全に、二人の世界に入るのです。
そんな二人を、父親は、薄く開いた扉越しに見つめます。
息子が自分とは違う世界にいるのだと知るのです。
そう、主人公は、狂気の側にいるのです。
そして主人公とフレッチャーは、音楽への狂気を共有しているのです。
父親の抱擁は、「狂気を持たずに生きる」という人生への導きであったといえます。
狂気を持たずに生きる……去勢ともいえます。
去勢と言うと、ラスト・エクソシズム2のクライマックスとも重なります。

ラスト・エクソシズム2の主人公は、施設に入り、仕事に就き、暖かく接してくれる友人たちや、好きな男の子と接するという「普通の暮らし」に馴染んでいきます。
ですが前作で死んだはずの父親の幻覚が見え始めたりと、だんだんと「普通」ではない、主人公のうちに潜む悪魔が顔を出し始めます。
そんな自分に恐怖を覚える主人公に、ある女性が接触を持ってきます。
女性は主人公を抱きしめ、「あなたの中の悪魔を取り除く方法がある」と告げます。
主人公は彼女に着いて行き、女性の仲間たちに悪魔払いの儀式を頼みます。
部屋の中で、ベッドに括りつけられる主人公。
そんな主人公の前に、父の幻が現れます。
父は「この儀式が終わればお前は死ぬことになるぞ。嘘だと思うならこいつらに聞いてみろ」とささやきます。
主人公は怯えながら、女性に「私は死ぬことになるの?」と問います。
女性は悲しげな顔をしながら首肯します。
主人公は怒りのままに、悪魔の力を受け入れ、女性とその仲間たちを惨殺します。
そして主人公は車に乗り込み、道々、停めてある車や街路樹を超能力で発火させていくところで映画は終わります。
悪魔≒狂気を取り除いてしまうと、それを宿している自分も死んでしまう……これはチャゼル監督が、自分自身を分析した答えなのではないでしょうか。
チャゼル監督がなぜこれほど狂気的に映画を作ること……映画そのものへの狂気的なまでの愛を持っているのかはわかりませんが……。
ここでは悪魔を宿してしまっている主人公ではあるのですが、最後のシーン……車を走らせながら目に映るものを燃やしていくところは、映像として美しいんですよ。
これはホラーというよりも、狂気の側に行ってしまった主人公の視点から描いていて、破壊行為を快楽的なこと、美しい側面を切り取って描いているはずです。
(町山智浩さんが、別の映画評で、「車を運転するということは自らの意思で行き先を選ぶ乗り物。電車に乗るのは、受動的に運ばれていく乗り物」と話していましたが、ララランドはほんとにそうですね。車社会のアメリカと、公共交通網の発達している日本では事情が違うところもありますが、ズバッと的を射ていますね)

少し長くなってしまったのですが、チャゼル作品と言えるこれら4つの映画で共通して描かれるのは、弱っている主人公を抱きしめる存在です。
そしてその抱擁を受けながらも、主人公たちはみな、普通の世界ではなく狂気の側に進むことを選んでしまいます。
そうでなくても、おそらく、主人公は「自立」しなければいけないのだというメッセージはあると思います。
キリストの文化圏だと、成人した子が親と一緒に住んでいるというのはかなりの少数派みたいですね。
そもそも、赤ちゃんですら親とは別の部屋を用意して寝かせるらしいです。
子どもの頃から親に依存しすぎないように育てるのが一般的なもよう。キリスト教の教義がそうなのかな。

・オーディション
そしてミアとセブは、オーディションが行われる部屋の前で、呼ばれるのを待っています。
ドアが開き、オーディションを受けていたのであろう女の子と、スタッフの女性が出てきます。
ミアは「ほらね」みたいな顔をしてセブのほうを見ます。
その女の子が、ミアの言う「私より綺麗でできそうな女の子」だからでしょう。
そしてスタッフの女性が「ミア」と呼んで手招きをします。
ここで、この女性が、ミアの名前をしっかりと呼んでいることも注目です。
これまでミアがオーディションで名前を呼ばれたことなどありませんでした。
審査員は手元に資料があるだろうにもかかわらず「あなた」というような呼び方しかしていませんでしたね。
それまでは、名前のないただのオーディション参加者でしかなかった。
このオーディションへの参加も審査員側からの指名だったので、これまでよりも、「いけそうな感じ」もしますしね。

そしてミアは一人で部屋に入り、セブは廊下に残ります。
オーディションの審査員は二人。
二人ともまずミアに名前を名乗り、握手を求めます。
めちゃくちゃ好感触ですよ……。
二人ともミアに心開いていて、期待を寄せていることがわかります。
片方が黒人女性なのですが、この人はミアの舞台の客席にいましたね。
そして、映画の内容が伝えられます。
「今回は脚本は作っていない。キャスティングが先。舞台はパリになる。パリでリハーサルが4か月、撮影が3か月。大丈夫かい?」(撮影とリハーサルの月数逆かもしれません)
キャスティングを先に行い、現地で監督や脚本家、そして役者も含めて映画の内容を決めていくということなのでしょう。
そういった企画なのであれば、自作自演の舞台にチャレンジしていたミアに白羽の矢が立ったのも納得がいきます。
『6才のボクが大人になるまで』という映画を撮ったリチャード・リンクレイター監督などは、実際に役者とディスカッションをしながら映画の内容を決めていくという手法を取っていますね。
『ビフォア・サンライズ』からはじまるビフォア・シリーズなどは、主演の男女二人が街を歩きながら延々喋っているだけという内容だったりしますし。面白い映画ですよ!
しかしミアの表情は少しこわばっています……。
おそらく、オーディションに受かったら、7か月間はパリに滞在しなければいけないというところに引っかかったのでしょう。
その間、セブと離れなければならないことを意味するからです。
おそらく昨日からの一連の流れで、セブに惚れ直しているんですよ。
そんなミアに気付いているのかいないのか、審査員は続けます。
「今日のオーディションでは、あなたに語り部になってほしいの。好きなことを話して。どんな話でもいいわ」
これまでのオーディションとは違い、台本はありません。
自分自身で考えて語る力、演じる力の両方が試されるようです。
そしてミアは少し考えてから、ゆっくりと語り始めます。
大好きだった叔母のことを……。
そして語りがだんだんと、歌になっていき、音楽が始まります。
部屋の灯りも暗くなり、ミアにスポットライトが当たります。
歌の内容は叔母の生きざまと、彼女のような破天荒な生き方をする人々を鼓舞するようなものです。
常識から外れているように見えても、そういう人たちの少しの狂気が、世界を変えていくのだということですね。
チャゼル監督自身や、この映画に関わっている人々の想いを歌い上げているのだと思います。
ミアは叔母をはじめとして、どこかイカれてしまっている人に惹かれて、自分も女優という仕事に憧れるようになったんですね。
彼女がセブに惹かれるのも、どこか、叔母の生き方に似たところがあったからかもしれませんね。
歌の内容も、アレンジもすごいですが、エマ・ストーンの鬼気迫るような歌唱も本当に素晴らしいです……これにアカデミー賞主演女優賞がいかなかったら、大変な事態でしたね。

・わたしたち、これからどうなるの?
オーディションが終わり、野外のベンチに腰掛けて向かい合うセブとミア。
「どうだった?」
とセブ。
「結果は2、3日後だって」
「いけそうか?」
ミアは「さぁ、どうかしらね」みたいなジェスチャーをします。
「受かっているよ」
セブはミアの才能に微塵の疑いも持っていないんですね。
「わたしたちはどうなるの?」(Whereって言い方をしていたような……)
「公園にいるよ」
「わたしたち、どうするの?」
はぐらかそうとするセブを、詰めるように質問を続けるミア。
「オーディションに受かったら君はパリに行かなきゃ」
「受かっていたらでしょ」
「君は受かってるよ。そうしたら君は没頭しなきゃ」
「それにパリではいいジャズが聴ける。好きになったろ? 僕は自分の夢を追いかけるよ。この街で。あとは様子を見よう」
(ちょっとここのところの英語表現がどういう意味合いだったのか、わからないです)
このシーンのもどかしそうな感じとか、ミア
ミアは今にも涙が溢れだしそうな瞳で、セブを見つめます。
「いつまでも愛してるわ」
「俺もいつまでも愛してるよ」
ミアに言わせちゃうのかよ……! って思って、胸が張り裂けそうでした。
ミア、きっとここで、「パリには行かずに俺とずっと一緒にいてくれ」って言われたら、首を縦に振ったと思うんですよ。
女優になる夢を捨てたんじゃないかと思います。
けど、セブはそれを言わないし、望んでもいない。
彼女は自分の夢をかなえる力を持っていると信じているから、それを邪魔するわけにはいかないと思っている。
それに直接言葉でも語られた通り、セブは、再び自分の夢を追いかけることに決めたのです。
たとえミアがパリへ行かずに、撮影がこの街で行われることになっていたとしても、復縁はしなかったんじゃないかと思います。
セブはオーディションに彼女を送り出した時点で、別れることを決めてるんですよ。
「愛しているけど、別れよう。お互いのために」なんて言わない。
自分の弱さのせいで関係に亀裂が入ってしまったことを知っているから。
人生において重大な決断をしたのです。

「それにしてもこの景色……ひどいな」
「ひどいわね昼に来るのは初めてよ」
セブ達が見上げているのは、グリフィス天文台の後ろっかわ……はじめてキスを交わした建物ですね。
あんなに幻想的で美しい景色も、昼間に下から眺めるとなんとも思えない。
二人はもう、夢から醒めてしまっているんですね。
人生の目標という意味ではなく、恋という夢のことです。
これまでこの映画は、とにかく、合成などではなく自然で、かつ美しい絵を作るために綿密な計算が施されてきました。
特に、二人が一緒にいるシーンはそうですよね。
このシーンも別に「ひどい」わけではありませんが、それまでの、「絵になる」景色と比べたら色あせて見えるということでしょうね。
恋という夢から覚めてからは、一緒にいるために、お互い工夫をしなければなりません。
恋が成就したばかりの頃ってお互い有頂天になっていて、楽しい事しか見えないですよね。
時間が経つにつれ、お互い、自分を変えたり、相手の事を深く理解しなければ一緒に入れなくなってしまう。
二人の恋はここで終わったんですね。

・5年後の冬
ヤシの木を下から見上げるような映像……かと思ったら、それは看板でした。
(これどういう意味?)
看板がカラカラと運ばれて行きます。
ここがスタジオなのだということがわかります。
車から一人の女性が降りてきます。
後部座席から降りてきているところを見ると、おそらく運転手がいるのでしょう。

そして女性はカフェに入っていきます……ミアが働いていたあのカフェですね。
そしてコーヒーを2つ注文……すると即座に提供され「サービスですよ」。
女性は「そんな、だめよ」と言って料金を支払い、募金もしていきます。
振り向いた女性は、果たしてミアでした。
彼女はサングラスをかけて、運転手が待つ小さいカートに乗り込んでいきます。
ミアが女優として成功を収めていることがわかります。

今度は、セブがお店の中でピアノの試奏をしている場面に移ります。
セブもどうやら自分の店を開くことができたようです。
そしてお店はどうやら繁盛しているようで、腕のいい調律師に頼んでピアノの音もいつでも最高品質を保てています。
カウンターのところで黒人男性が、なにかの書類にサインしながら「店は繁盛してるみたいだな」と言っています。
セブはバンドのメンバーの肩を叩いたように、その男性の肩を叩きながら「ぼちぼちがいいんだけどな」と言って出口に向かいます。
セブがキースの前で契約書を書かされたように(キース、サインしようとするセブのこと見すぎでしたが(笑))、今度はセブが契約書にサインしてもらう側になっているということですね。
ところで、ここでサインをしている男性って誰ですか……?
この後に出てくる黒人男性というと、夜にお店でゲストとしてピアノを弾いているカイラーさん? だと思うのですが、この人がカイリーさんかどうか、ちょっと判別がつかないです……。
どちらの男性もとてもチャーミングな笑顔なので、カイリーさんなのかな……。
あと、セブが「肩を叩く」という仕草にどういう意味があるのかよくわからないです……。
「いい仕事したな」みたいな激励?

書いていて思い出したのですが、春の始まりでセブがキーボードを弾いているニューウェーブバンドのボーカルがいましたよね。
あの人が、ミアと話しているセブを呼び戻す時に、セブの胸を叩いて「演奏を再開するぞ」と言っていましたよね。
おそらくバンドを取り仕切る立場にある人間が、メンバーに演奏を頼む(もしくは激励)する際に、胸を叩くというジェスチャーをとっているということでは。

・それぞれの生活
家に帰ってくるミア。
家で彼女を待っていた男性と、唇にキス。
そして奥の部屋では、小さな女の子がお絵描きをしていました。
「ママもお絵描き大好きなのよ」
ミアの部屋には、自作したであろう舞台のポスター風の絵がありましたしね。
彼女は結婚していて、娘も生まれていました。
心の底から幸せそうな顔をしています。
旦那さんはそこそこしわが深く、おそらく若くても30代後半くらい……おそらくは40代の男性ではないかと思います。
年上男性と結婚するハリウッド女優……あるあるですね!
いや、日本でもあるあるか。

セブも家に帰りつきます。
ミアと一緒に暮らした部屋からは引っ越したようで、ピアノは置いてあるものの、あの頃よりも狭い部屋のようです。
そして二切れのチキンを炒めて料理を作ります。
一人暮らしなのだということが読み取れます。
キッチンには、姉夫婦から送られてきたであろうカードが立てかけてあります。
「楽しいホリデーを!」という文字がつづられていて、夫婦の間には子どももいます。
はじめの頃に、父親の写真すら飾っていなかったことを考えると、セブも変化しているんですね。

・それぞれの夜
ミアとその夫は、ベビーシッターに娘を預けて、家を出ていきます。
娘も「バーイ、マミー」と言ってミアとパパを見送ります。
ミアはシックなドレスを着ていて、特別なところに場に出かけていくことがなんとなくわかります。
ミアは上流階級の仲間入りを果たしていることが、この衣装からわかります。
(もしかしたらハリウッドセレブはどこ行く時もこんな格好なんですかね)

セブは車を通りに停めて、店まで歩いていきます。
壁には大きく「エレノア ミア・ドーラン主演」と書かれており、ミアの顔も大きく描かれているのですが、セブはそれに目をくれることなく通り過ぎます。
ミアの顔が大きく写っているだけの絵が広告の役割を果たす……ということは、女優としては大成功しているのでしょう。
しかし、おそらく、セブもミアのことをあまり覚えていないし、壁に書かれた広告に興味もない男なのでしょう。

夫の運転する車の助手席に座るミア。
道路は渋滞していて、なかなか前へ進みません。
「ひどい渋滞だな……遅れたらどうする?」
「ニューヨークで観るからいいわ」
二人は、何かを「観に」行こうとしているようです。
なにかの舞台かも知れませんが、ニューヨークでも観られるもの……ということは映画ではないでしょうか。
おそらくはミアの出ている映画でしょう。
この返事をする時、ミアはあくびをしています。
そして少し考えてから、「……ねぇ、降りて夕食を食べるのは?」と夫に提案します。
「いいね」
夫はそう答えて、ハンドルを切って普通道路に合流します。
ここのところ……冒頭の渋滞シーンを、夢を掴もうとする人の多さを表しているという考えに基づくとすれば、ミアは「すでに夢を叶えていて、余裕ぶっこいてる」という話になりはしないでしょうか。
ミアはもう大女優の座についているから、列に並ばなくても「またチャンスがあるでしょう」と楽観視していられる立場になってしまっているのだと。
あくびまでしているし……。
やっぱりちょっと、「女優蔑視」みたいなものが透けて見えてしまいます……ララランド。

そしてミアは夫と腕を組みながら通りを歩きます。
夕食を済ませた後なのでしょう、ミアは停めてあった車に乗り込もうとしますが、すぐそこの店から流れてくる音楽に夫が反応します。
どうやらそこでは生のジャズを演奏しているようです。
夫が「ちょっと見て行こう」とミアを誘うように言い、腕を出します。
ミアは夫が腕で作ったわっかの中に手を入れて、再び腕を組みます。
そして店への階段を下りていきます。
店の中に入ったミアの目に飛び込んできたのは「SEB’S」のロゴ。
「いい感じだよ」という夫に連れられて奥へと進むにつれ、セブが大事にしていたホーギー・カーマイケルが座った椅子や。ジャズレジェンドたちの写真が飾られています。
セブの部屋がすっきりしていたのは、彼の部屋に置かれていたコレクションを店に持って行ったからなんですね。
そして夫はミアの分のドリンクを持ちながら、彼女を席まで誘導します。

「店から聴こえてくる演奏に惹かれて、ピアノを弾いているあの人とまさかの再会」
という展開ですが、セッションと全く同じですね。
セッションはやはりどこか、主人公と鬼指揮者の禁断の関係を描いているように思います。

そしてバンドが演奏を終えると、セブが出てきてバンドメンバーの紹介を始めます。
一人一人のメンバーをしっかりと紹介するところがいいですね……。
セブがみんなを愛していることが伝わってきます。
きっと演奏者も、セブ自らが選んで出てもらっているのでしょう。
血は繋がっていないにしろ、セブも家族のような、自分の居場所を作ることができたんですね。
そして、セブは、客席にミアを見つけてしまいます。
しばし言葉を失いますが、「ようこそ、セブズへ」と言葉を述べて、ピアノの前の椅子に着きます。

・エピローグ
そしてゆっくりと演奏を始めます。
二人が初めて会った時に弾いていた、あの曲です。
バンドのメンバーも、お客さんも、物音一つ立てずにセブの演奏に聞き入ります。
セブは夢を叶えたんですね。
雰囲気を楽しむんじゃなくて、演奏を聴きに来ている。(客席もちゃんと、舞台を向くようにして作られているし)
ミアも切なげなまなざしでセブのことを見つめます。
だんだんと照明が暗くなり、ミアとセブの周囲だけに光が当たります。
二人が、二人だけの世界に戻っていっているということを表現しています。

そして、いつの間にか、二人は初めて出会った瞬間に戻っていきます。
あの時と全く同じです。
セブはピアノを弾き終ると、ビルに呼び出されます。
ミアは余韻に浸るように立ちつくしています。
そしてセブは楽譜とチップを手に取って、レストランの出口に向かいます。
ミアはそれに合わせるように歩き出し、「あなたの演奏、とても……」
セブはそんなミアのことを抱き留めて、キスをします。
ミアも受け入れて、セブに腕を回します。
あの時、セブはミアを突き飛ばすようにして店を出たはずですが、ここではそうはなりません。

すると周囲の客たちがフィンガー・スナップ(指パッチン)でリズムを取り始めます。
はじめは困惑していた二人ですが、ミアは幸せそうに微笑みます。
この流れに身を任せることに決めたんですね。
セブは彼女の手を取って、店の裏口へ向かいます。
しかしビルが腕を組みながら、二人を阻みます。
……と思いきや、彼もフィンガー・スナップでリズムを取り出し、笑みを浮かべながら道を開けてくれました。
セブとミアも目を合わせて微笑み、ビルの脇をすり抜けていきます。
この時、セブは、手にしていた楽譜を後ろに放り投げてしまいます。
サプライズで帰宅し、ミアを抱き留めるために鍋つかみを投げ捨てた時のように。
セブは何よりも音楽を愛しました。
キースというメフィストフェレスに魂を売ってまで、音楽を究めようとした男です。
ミアのオーディションの後、「様子を見よう」と言ったのは、彼女を突き放すためです。
あの時彼はすでに、愛よりも音楽に身を捧げることを決めていたのです。
愛した女性よりも、音楽が……自分のことが大事だったんです。
自己中心的。
エゴイスト。
自己愛が強すぎて、他人に愛を向けられない。
そんな彼が、ここでは、楽譜を投げ捨てています。
セブの決断が、いかに苦渋に満ちたものであったか……どれだけ後悔していたかが、わかります。
この一つの動きに集約されています。
そして、この先に続く映像は、そんなセブが音楽よりもミアのことを選んでいたら……という「もしも」です。
号泣ですよ……。

また、ここでビルが二人の行く手を阻むというのは、重要です。
最初にも書いたように、ビルはとても厳しい男で、セブの身勝手さを容赦なく断罪します。
ある意味で「現実の象徴」と言えます。
その男がここで二人を阻もうとするのは、これが「あり得ない夢」だからではないでしょうか。
「そんな妄想しているくらいなら自分のやるべきことをやれ」
チャゼル監督の中のストイシズムが具現化したような存在です。
しかし、彼は二人を通します。
「今だけはそんな夢を見ることも許すよ」と言わんばかりです。
ある意味では、夢を叶えた二人へのご褒美のように……。
だって、別れたはずの二人が、奇跡的に再会できたのですから。

「裏口を抜けていく」というモチーフもやはり重要です。
(心理学的な意味がありそうですが、説明ができません……恥ずかしい……)
ただ少なくとも、「あの時は通らなかった道を通る」が執拗に繰り返される時点で、映画にとって必要な演出であることは間違いありません。
「あの時、あっちを選択していれば」というシーンなわけですしね。

で、音楽が極上すぎる。
ララランドで一番の傑作曲はこれでしょう。エピローグ。
劇中の歌曲のメロディは劇中で執拗に繰り返されています。
様々なアレンジが施されていますが、基本的に劇伴はすべて、歌曲のメロディをもとに作られています。
僕は10回鑑賞しているし、サントラも何度も何度も聴き込んでいるので覚えてしまっていますが、おそらく一度目の鑑賞でも刷り込まれているんですよ。
曲のメロディを。
そうして刷り込まれた音楽が、ここでまたリバイバルされるんです。
映画を通して観客が感じた様々な感情を引っ張り出すアンカーの役割を果たすんですよ。
アナザー・デイ・オブ・サンの高揚感、サムワン・イン・ザ・クラウドのきらめき、オーディションの激情……印象付けの仕方が完璧なんですよ。
演出アイデアとして、もう、最高としか言いようがないです。
で、また、一つ一つの曲が最高としか言いようがない……アカデミー賞音楽賞の今後十年分すべてララランドに贈らないといけないんじゃないか、とすら思うような……音楽が、ここでは惜しげもなく大放出されます。
しかも、一つ一つのシーンと完全にタイミングがハマってる。
しかも、曲が良いだけじゃなくて物語上の演出としての機能も完ぺき。
言葉が無くても、観客はこのシーンに渦巻く感情を完全に理解できるんですよ。
それは、各パートでの登場人物の感情の動きがめちゃくちゃわかりやすく作られているからです。
そんな物語を作るのって、並大抵のことではありません。
そしてそれを支えているのは、やはり、音楽の力なんですよ。
総合的な演出力がずば抜けています。
そのうえとんでもなくエモーショナルです。
チャゼル監督……天才です。
ジャスティン・ハーウィッツさんも天才です。
天才二人が死ぬほど努力して作っているのだから、傑作にならないわけがないですよね……。

ミアが手を引いて、家の中を抜けていきます。
とても楽しそうな顔をしています。
ミアは途中で、セブのことを振り返ります。
セブもとても穏やかな笑顔を返します。
映画の序盤のように、とてもあたたかい色彩のシーンです。
これはおそらく、二人の恋のきらめきが絶頂にあった頃……恋の夢がもっとも輝いていた頃に戻ったのだということを示しているはずです。
それを、衣装や、画面の彩度で演出しているのです
天才ですよ……チャゼル監督。

ライト・ハウスで向かい合う二人。
顔を寄せ合って、セブはミアに熱く語りかけています。
そこへキースが現れますが、セブは「今取り込み中」というようなしぐさで彼を拒否。
キースもそのまま去っていき、店の演奏に合わせてダンスをします。
キースのバンドへの誘いに乗ったことが、ミアのとの関係に亀裂が入るきっかけになった……ということを、セブはきっとずっと気にしていたんでしょうね。
泣けます……。
もちろんあれは、金銭的な事情を考慮した選択だったんですよ。
キースと出会っていなくても、きっとセブはミアの言葉から勝手に思い込んでしまうことは変わらなかったはずです。
それでも、あの時に自分の意思を強く持って断っていれば……お金が無くても「他の奴の言うことなんて気にしない」を貫く自分にミアはついてきてくれるかもしれない。
あの時ああしてれば、ああなったかもしれない……。
ありますよね。
どっちを選んでいても、その先には別れがあったかもしれませんけどね。
その選択を「決定」した自分の人格を変えるには、もっと前から、いろんな選択肢を変えなきゃいけないはずなんですけどね。
後悔ってそういうものです。

続いて、ミアの舞台。
今度は、ミアはランプの灯りを消さないまま客席を見下ろします。
灯りがつくと、満員の観客がスタンディング・オベーションで迎えてくれます。
黄色いお花を手にした人もちらほら。
ここで一番早く立ち上がったのがセブです。
彼は大きく口を開けて何かを叫んでいます。
彼の声は大きいので、喝さいの拍手と歓声の中からでも、きっとミアに届いていたでしょう。
ミアも、それを見て、心の底から幸せそうな笑顔になります。
そして舞台袖へ向かうミア。
舞台上にあった、窓のセットの向こう側でセブに迎えられます。
セブは大きくガッツポーズをしながらミアを激励。
ミアは彼に抱き付き、キスをします。
セブは幸せそうな顔のまま崩れ落ちてしまいます。
セブだって本当は、ミアの舞台を観に行きたかったんですよね。
愛する女性が、夢への一歩を踏み出したんですから。
それまでの環境から抜け出して、一歩目を踏み出すというのは大きな決断です。
ミアだって、たとえ客席が埋まっていなくても、そこにセブがいてくれれば、「みんな見る目がないんだ。君は天才だよ」と言ってくれれば、心は救われたはずです。
もしそこにセブがいたら、訳知り顔で批評(という体裁の悪口)を語る連中を撃退してくれたかもしれない。
彼がそこにいてくれるだけでどれだけ心強かったでしょう。
劇場の外で待つ彼に抱き付いて、思い切りキスをしたかった。
ミアとセブのちょっとした選択で観客が満員になったということは考えにくいですが、物語の中の一番痛ましいシーンとして、観る者の心に刻まれたシーンだったことは間違いないはず。
僕が一番泣くのも、このシーンです……。

そして今度はセブがミアの手を引いて、劇場の裏口へと抜けていきます。

そして二人が扉を抜けると、そこは真っ白な部屋でした。
二人の衣装も、ここが一番ステキです……。
ミアとセブも、ちょっとだけ戸惑っているようです。
ここでセブは、ミアを先に行くようにエスコート。
実はセブって、かなりエスコート上手なんですよね。
ミアと一緒の時は彼女にドアも開けさせないし。
このシーン、二人でスタジオをさんぽしていた時に覗き込んだところ、同じセットになっているんですよね。
ミアはあの時、諦めたような表情でスタジオを見ていましたが、二人を迎えるように、人々が群舞しています。
ここのところは意味があまりわからないのですが、クラシカルなミュージカル映画的な世界観をパロディしているのでしょうか。
マリリン・モンローのそっくりさんも出てきているし、「僕たちの物語も、ミュージカル映画みたいに上手くいけばよかったのにね」という願いが現れているのでしょうか。
車に乗っているジェスチャーをしている人たちが、書き割りの中の横断歩道でミアとセブを通すために停止しているので、やはり「二人を優先して通してくれる世界」というニュアンスなのかなぁ。
しかしそんな世界も長くは続かず、音楽がメロウになり、ミアはオーディションの審査員に手を引かれて行ってしまいます。
ミアとセブは手を放してしまいます。

そしてミアのオーディション。
影絵風に描かれる切ないシーンですね。
ミアの歌が終わり、審査員は二人とも喝さいの拍手。
そんな様子をセブは、部屋のすぐ外で固唾をのんで待っています。
ミアは部屋を抜け出して、外で待っていたセブとキス。

そしてミニチュアの飛行機が地球儀の上を飛んでいき、パリに行き着きます。
パリのお店で、セブはジャズバンドと共に演奏をしています。
かたやミアは映画の撮影をしていて、メイクさんにお化粧を施してもらっています。
「いいジャズが聴ける」とセブが言っていたくらいなので、パリはジャズが盛んな街なのでしょう。
セブはミアのパリ行きについていって、自分もそこでジャズの修行にいそしんでいるということですね。
冷静に考えると、そういう道もあったはずなんですよね。
もちろん「クソ契約書」にサインしてしまっているので、一筋縄ではいかないことでしょうけど……。
エゴがめちゃくちゃ強いセブではありますが、恋人を自分の元に呼び寄せるのではなく、自分が恋人についていくという選択が取れたらよかったんじゃないか……ということですよね。
メッセンジャーズのツアーにミアも同行するように誘うシーンがありましたが、セブの方がミアに依存していたんだと思うんですよね。
ミアは「寂しいわ」といいつつも、舞台に向けての準備を着々と進めていたわけですから。
まぁ、好きじゃない音楽を延々演奏しなきゃいけないし、キースのことは嫌いだしで、セブのストレスも相当大きかったのでしょうけど。
セブが別れを決断したのって、自分が、恋人がいると依存してしまう性質だということを理解したからかもしれないですね。

そして、トランペットのベルのところにカメラがズームインして、二人は川のほとりの遊歩道に移動します。
ここでもやはり裏口……というか人が普通通らない穴を通りますね。
夜はパリの街を二人で散策できただろうなぁ……そうなっていたら素敵だなぁという話ですかね。
セーヌ川はミアの憧れの場所だったでしょうしね。
そのまま二人は踊ります。
プラネタリウムの時と音楽もほとんど同じ。
セブもミアも、本当に王様とお姫様みたいです……。

そしてまた舞台は移ります。
今度は真っ暗な部屋。
真っ暗な中に、フィルムの映像が投射されています。
カラカラと、フィルムが回る音まで鳴らされています。
二人が座り込むと、映像が始まります。
ここではシティ・オブ・スターがピアノだけで演奏されています。
町山智浩さんも語られていましたが、シティ・オブ・スターは二人で完成させた歌です。
この歌がここで使われているのは、二人で一緒に作ったものは、子どもと同じような存在だからですね。
二人は子を持ちませんでしたが、一緒に作った歌が存在しているんです。

流れ始めた映像は、ミアが壁のペンキを塗っているところから始めます。
海外では、新しい部屋に住み始める時、自分たちで部屋の壁を塗ることがあるようです。
おそらくミアとセブは、二人で家を買ったんですね。

次に、お腹が大きくなっているミアを横から撮った映像。
セブはそんなミアを抱き寄せてキスをします。
そして次は、ベッドの上で赤ちゃんを抱いているミア。
傍らにはセブもいます。
多分、出産して間もないのでしょう。

次は「ハッピーバースデイ」と飾り付けられたリビングルーム。
そんなに派手ではありませんが、二人で、子どもを喜ばせるための準備をしたことがうかがえます。
赤ちゃんは一人で歩けるようになっています。
セブは小さなとんがり帽子をかぶっています。

セブとミアと子どもとで、外に出かけます。
公園へピクニックでしょか。
ミアとセブは肩を寄せ合って、またキスをします。
子どもが出来ても、二人の愛情は冷めていないんですね。
また、こちらの子どもは女の子ではなく、男の子であることがわかります。

場面は移って、夜。
そして二人は、子どもをベビーシッターに預けて、出かけていきます。
出かけざま、セブはミアに「しーっ」とサインを送ります。
子どもを預けてこっそり出て行こうとしているのでしょうか。
子どもって、親と離れるのをめちゃくちゃ嫌がりますからね。
ここは何通りか解釈があります……。
僕は「しーっ」とやっているように見えるのですが、もしかしたら気のせいなだけかもしれません。ちょっと挙動が細かくて見極められません。
「しーっ」をやっているのであれば、それは「子どもに気付かれないように」です。
ミアの旦那さんは出かけていく時も、別にこんなことはしていませんでした。
女優業で忙しいミアは不在がちだから、娘もミアが家を出ることを嫌がらないということなのかな……。
対してこちらのミアは、息子といつも一緒にいるから、出かける時もこっそりやらないといけないんですかね。
もう一つ、少し抽象的な解釈。
息子は、ビルと同じように、現実の象徴なのかもしれません。
セブが「しーっ」と合図を出しているんですけど、結局息子は振り返って、出ていく二人に手を振っているんです。
バレてしまっているんですね。
けど、泣きだしたり、二人を引き留めたりしないという……。
子どもも、二人のひと時の夢を壊さないよう計らってくれているんですね。
ここのシーンですが、子どもはおそらく2歳前後の本物の子どもを使っていますよね。
多分、「振り返ってパパとママに手を振る」という演技のタイミングを合わせるために、ベビーシッター役の人が合図を出しているように見えます。
動画サイトでエピローグ部分だけを抜き取ったものを何度か観て確認しました。
赤ちゃんのことを抱いている腕を動かしているんですよね。
多分ですが……。
ビルと同じような存在じゃないかな、という解釈でした。

そして二人は車でデートへ。
あの時と同じように普通道路へ降り、道を歩いていたら店から流れてくる音楽に興味を惹かれ階段を下りいきます。
店内で演奏されているのは、セブのテーマ。
セブではない青年が弾いています。
椅子と椅子の間に小さなテーブルがあるのに、ミアはセブの胸に手を置き、セブはミアの膝に手を掛けています。
ラブラブ……。
そしてミアはセブの方を向き、セブもそんなミアに気付いて顔を合わせる。
そして、二人は微笑みあい、キス。
演奏中にもかかわらず……。
そして、曲が終わります。
ピアノの演奏者の腕は、茶色いスーツをまとっています……つまり、セブに戻っています。

ここのところの、ミアと旦那さんペアと、ミアとセブペアの描写がちょこちょこ違っています。
まず、店に入る前。
ミアは車に乗り込もうとしますが、旦那さんの方がお店から流れてくる音楽を聴いて「ちょっと寄っていくか」と誘います。
セブとミアは、二人で顔を見合わせて「入ろうか」という合意をします。
前者のミアは、もしかしたら、もうジャズへの興味を失ってしまっているのかもしれないですね。
対して、旦那さんの方は、ジャズ鑑賞が趣味なのかもしれない。
もしかしたらこの旦那さんのとは、ジャズ鑑賞という趣味を通して仲良くなっていったのかもしれません。
少なくとも、旦那さんがジャズを好きでなければ、この店に惹かれることはなかったんじゃないでしょうか。
セブと結婚しているミアは、当然、セブの音楽を……セブが好きな音楽を好きなまま。
だから、セブがジャズの演奏に反応したら、自分も付き合おうと思う。
次に、店内での様子なのですが……。
旦那さんとのミアは行儀よく座っていますが、セブと一緒だと、イチャイチャしてるんですよね……。
「おしゃべりのBGM」としてジャズが扱われている現状を嫌うセブが、なぜイチャイチャしているんでしょう……。
ジャズへの執着をやめたという象徴でしょうか?
一つの解釈としては、二人の妄想が、現実の時間軸に近付いてきてしまっていること……つまり夢から覚めなければいけないことをわかっているから、最後に、またキスをしようよということなのかなぁと思います。
難しいです……。
これまで監督は、シーンを対比させることで意味を強調するという作法をとってきたので、おそらく、細かい演出にも意味があるはずなのです。

・THE END
演奏が終わると、舞台上の演奏者も観客もセブに拍手を送ります。
そんな中、ミアだけが手を動かすことができずに放心したような状態。
潤んだ瞳でセブを見つめています。
そんな彼女の様子を見て、旦那さんは「まだ聴いていくかい?」。
奥さんが退屈しているかもしれないと思ったのかもしれません。
ミアは少し考えた後「もういいわ」
ミアは今満ち足りた生活をしています。
仕事では成功していて、しっかりした旦那さんがいて、かわいい娘もいます。(ほんとかわいい)
幸せな未来を空想する必要がないくらい、今が幸せなのです。
だから「もういいわ」なんですね。
二人は立ち上がり、店の出口に向かいます。
セブはセブで、ピアノの鍵盤に視線を落としたまま動けずにいます。
自分の作った曲を自分で演奏して、それをこれだけの拍手で迎えられているというのにです。
おそらくセブは、ミアを見たくないのではないでしょうか。
彼女が自分の曲を、5年経った今、どんな風に聴いているのか……興味すら示してもらえなかったらどうしよう。
旦那さんとイチャイチャしていたらどうしよう……。
旦那さんが店の階段を上がりはじめた時、ミアは立ち止まります。
そして、セブの方を振り返ります。
ややあって、セブも店の出口に視線を向けます。
お互いに見つめ合う二人。
はじめてライト・ハウスを訪れて、店の前で別れた時は、お互いタイミングが合わずに視線が交わることもありませんでした。
今回はちゃんとタイミングが合いました。
セブは口角を上げてミアに微笑みかけます。
そのセブの顔を見て、ミアも微笑みます。
そしてミアは、少し切なげな目をしながらも、夫の後を追って階段を上がっていきます。
セブも、少しだけ寂しそうにしながらも、「ワン、ツー、スリー、フォー」とリズムをとって演奏を始めます。
「セブがミアに捨てられた」という視点で解釈している人がいますが、セブはすぐに自分の仕事に戻っているので、「どちらか一方が捨てた」ということではないですよ。

そしてハリウッドの街並みを映した映像をバックに『THE END』の文字が表示されて、映画は終わります。

・夢か現か
このラストシーンですが、多くの人は、妄想が映像になったものだと思っていると思います。
僕もそう思います。
「セブだけが見ている夢」という意見もありますけど、エピローグのシーンではミアがセブの手を引いて進むところ、セブがミアの手を引いて進むところ、どちらもあります。
素直に解釈をすれば「二人で見た夢」と考えて間違いないでしょう。
ただし、監督は「ただの夢じゃない」と語っているそうです。
町山智浩さんがパンフレットの解説で書かれていますが、監督は『第七天国』というサイレント映画を引き合いに出して説明しているとのこと。
この映画は第一次大戦期を舞台にしていて、夫の戦士の知らせを受けたものの、妻はそれを信じないそうです。
終盤、なぜか夫が生きて帰ってきて、妻と抱き合って映画は終わるのだそうです。
映画が暗すぎるからハッピーエンドにするように要請を受けた監督が、ヤケクソになって当てつけのように無理やりオチをつけたという真相らしいです。
ですがチャゼル監督は「夫が死んだのも事実だし、生きているのも事実だ。本当に深い感情は時空も現実も物理法則も越える。気持ちが心に溢れた時、天国から90人編成のオーケストラが降りてきて演奏してくれるんだ。それはバカバカしいかもしれないけど、真実なんだ。少なくとも僕にとって」と語ったのだそうです。
セブとミアは夢を見ました。
「あの時ああしていれば」ということを、二人で一緒に想像したんです。
映画では、二人はその夢から覚めて、それぞれの現実に戻っていきましたが、二人が想像したとおりの世界もあるかもしれないですよね。
僕たちが知らないだけで。
SF作品では本当にそういうモチーフもありますし、一つの化学として、そういう説もあるようですね。
未来も過去も見通せるとか、枝分かれしたいくつもの時間軸を同時に見通せるとかという話。

ララランドの物語の解説・考察はこれでおしまいです。
もう一つ、ララランドという映画全体の考察や感想を各エントリをアップします。

 - ララランド, 映画

Comment

  1. ムロウ より:

    非常に詳細かつ的確な考察で、楽しく拝見いたしました。
    ラストシーンが「セブだけが見ている夢」という意見もありますけど、と書かれていますが、そのシーンがミアのアップから始まっているので、ミアだけが見ている夢と考えるのもありだと思います。
    もしくは、人生は選択と決断の連続と考察に書いておられたように、もし二人が選択と決断を変えていたら、こうなっていたであろうというパラレルワールドのような世界観を表現したかったのかも知れません。

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