てやんでい!!こちとら湘南ボーイでい!!

映画音楽本ごはんの話を、面白く書けるようにがんばります

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LA LA LANDのすべて 感想と豆情報

   

・チャゼル監督のプライベート
ゴシップっぽい話ではありますが、個人的にこのエピソードを聞いて、ララランドをもっと好きになったので……。
チャゼル監督はハーバード大学で出会った映画監督志望の女性と結婚しています。
お相手はジャスミン・マックグレイドさん……今のところ日本で名前を目にする機会はほぼありません。
ジャスミンさんは、チャゼル監督が2009年に制作したインディーズ映画『ガイ・アンド・マデライン・オン・ア・パーク・ビーチ』という作品にプロデューサーとして携わっています。(ちなみに音楽はジャスティン・ハーウィッツ氏。チャゼル監督とはほんとにずっと一緒なんですね)
しかし、2014年には離婚しています。
2014年というと、セッションが公開された年です。
セッションの前進となるパイロットフィルムは13年に公開されているので、離婚前の1~2年は、チャゼル監督はかなり忙しくしていたのではないでしょうか。

具体的に、なにが原因で離婚に至ったのかはわかりませんが……。
もともとチャゼル監督はドキュメンタリー映画の監督になる勉強をしていたのだそう。
セッションの内容は監督がドラム奏者として活動していた高校時代に体験したものがベースになっています。
チャゼル監督は、自分の体験や感情をベースに創作しているのだと思います。
もちろん実話だけではないでしょうが、核となる部分は、チャゼル監督の個人的な経験であるはず。
セッションのようなストイックさの極みと言える映画を作ったのは、離婚という私生活の破たんもモチベーションだったのかもしれないです……下世話な推測ですが。
ララランドのことを考えてみても、「別れ」が痛切な動機となった可能性はあるように思います。

クリエイター志望者にありがちではないでしょうか……自分の性格の悪さ、相手への思いやりのなさを「自分はやらなきゃいけないこと(制作)があるから相手を優先できない」という言い訳をしてしまうこと。
僕だけかもしれませんが……。
いや、チャゼル監督がそういう人だとは決して思いませんけれどね。天才だし。
けど少なくとも、似たテーマの映画『風立ちぬ』ではそういう話でもありましたよね。
相手も同じく監督志望者だったというなら、衝突することもあったのではないでしょうか。
セッションで恋人と別れる時、主人公は「僕は偉大な音楽家になりたい。だから君と付き合っている暇なんてないと思うんだ」という最低な台詞を吐くのですが……。
対して恋人も「あなたには無理よ」とはっきり言うんですね。
あれってチャゼル監督、誰かに言われたことがあるんじゃないかと思います……。

しかしここですごいのは、ララランドのラストでは別れた相手の事を心の底から祝福していることです。
ここも現実と一緒で、なんとチャゼル監督、元妻のジャスミンさんを、ララランドのエグゼクティブ・プロデューサーにしているんです。
ジャスミンさんの名前が少しでも売れるようにという気持ちからの計らいだそう。
離婚したからと言って、関係がそこで終わるわけではないんですよね。
これはある意味、男っぽいというか……世間一般で言われている、「女はすぐに忘れるけど、男は忘れない」ってやつみたいな感じ。
めちゃくちゃいい話ですよ……。
宮崎駿さんの奥さんも元アニメーターだったそうで、しかも、アニメーターとしては宮崎駿さんよりも才能があったと言われることすらありますね。

元恋人への祝福で終わる映画って、なかなかないと思います。
「あの時は愛し合ったね」という昔を懐かしむような、切ない思い出という描き方はありますけどね。いっぱい。
風立ちぬでは、献身的に支えてくれた奥さん死んじゃいますしね。
宮崎さんの奥さんはまだご存命なのに……ひどい男ですよ。宮崎駿さん。
それとか、終わった恋愛は早く忘れるに尽きるというようなテーマ性もよくある。
そこんところが、僕がララランドですごく好きになった理由ですね。

岡田斗司夫さんが「作家な作品を作りながら、自分の心の傷をいやそうとする」って言っていたんですね。
自分の中で解決できていない、答えの出ていない事柄を作品の中で扱って、作品を作りながら答えに近付いていくと。
そういう作家さんって確かに多いと思います。
宮崎駿さんもそうですし。
ララランドもおそらくそうなんだろうなぁと。

・理想的なダブル主人公
これは本当に驚くべきことなんですが、ララランドは、男が観るとセブが主人公に、女が観るとミアが主人公になるんですよ。
ララランドを観た人と話すと、本当にまっぷたつになるんです。
僕はセブが主人公だと思いましたが、女性に聞くと「ミアが主人公」と答えるんですよ。
町山智浩さんも語っておられましたが、この映画はセブのシーンとミアのシーンが半分ずつなんですね。
僕が、セブが主人公っぽいなと思うのは、セブのほうが能動的に行動を起こすからですかね……。
しかし男として生を受けて、男の子っぽい作品を観て育ってきたわけで、そういう「男主人公っぽさ」をセブは持っているのかもしれないです。
僕は能動的な人間だから主人公だと思いましたが、女性が親しむ作品というのはミアのように受け身な主人公の方が多いのかもしれませんね。
いずれにしても、「観る人によって主人公が違って観える」という経験はこれまでなかったので、面白いです。

・ただそれでも男の方がツラいのでは……
僕は公開初日に見た時は死ぬほど打ちひしがれました。
セッションも二回観たくらいなので、チャゼル監督の新作はまぁふつうに観るわ……と思っていたところ、ミュージカル映画だと。
アメリカで公開されるや否や大好評のようで、日本でも1月に入る頃には劇場で予告編がよく流れていましたよ……。
本当は予告編すら観ず、前情報が何もない状態で映画を観たい方なのですが、12月からララランド公開直前にかけては『この世界の片隅に』を何度も観に行っていたのです……。
そう、予告編の内容は、どう考えてもハッピーなミュージカル映画に見えるようになっていたんですよ。
日本ではハッピーエンド映画しか売れないから、そう見えるように仕組んだのか……それとも、それにつられて観に来た客を打ちのめすための罠だったのか、僕にはわかりませんが……。
ミュージカル映画っつったらハッピーエンドじゃない? というパブリックイメージを逆手にとった感じもいいですよね。
もちろんシェルブールの雨傘から強い影響を受けているのは知っていますよ。僕もあれは見ています。けれど大衆が抱いているイメージというのはありますからね。
世間が抱いている認識を逆手に取るというのは、時代の先端を行くアーティストがやりますよね。いいですよ。やっぱりチャゼル監督は天才です。
とにかく僕は「ハッピーエンドやん!」と思い込んで観に行き、見事に死にたくなりました。
後日友だちと観に行きましたが、彼も「この後どう過ごしていいかわからない」とぼやいていました。
どん底ですよ。
そもそもライアン・ゴズリングという俳優は、女性との恋愛が成就しない映画にばっかり出ているのだから、もっと警戒しておくべきだったんですよね……はぁ。

しかし、女性に聞いてみると、別にこの内容にショックを受ける人はあんまりいない模様。
もちろん世間一般的に「男の恋愛はフォルダごとに保存、女の恋愛は上書き保存」というくらい。
女性は昔の恋愛はさっさと忘れちまうって話ですね。
ですが、このショック度の違いは単純に、映画の構造からきているものです。

セブは一人身を貫いていますが、ミアの方は結婚をしていると。
まずこれはめちゃくちゃデカイですよ。
ラブストーリーとしてこの映画を観たなら、セブは失敗者、ミアは成功者ということになります、
上述したように、男は多分セブを主人公として観ていて、女性はミアを主人公として観るんです。
そうなった時に、感情移入している対象が独り身だったら落胆するし、家庭を持って幸せそうだったら嬉しいですよね。
わたしは死ぬほどつらかったですよ。
しかもエピローグのシーン……あそこは台詞もないから、観る者の想像力を喚起するんですよ。
あそこのところ、観ていて、自分の昔の恋愛を思い起こしませんでしたか……?
ほんとつらかったです……あの時ああしてればなぁ、っていうのが洪水のように噴き出してきましたよ。
しかし女性の方は、そういうのをすぐに忘れてしまう人が多いので、あのシーンを観てもあまり感慨がないもよう……。
ずるいですよ!

ミアは結婚をしているし、子どももいるんですよね。
ラストシーンでのセブは、ミアが「おそらく男の人と一緒にいる」ということは知っていても、結婚していて子どももいるとまでは知らないはずですけど。
(ていうかよく考えると、セブの視点から見ると、「ミアがいる」ということ以外はわからないはずだな。ミアが旦那さんと触れ合ったり、言葉を交わしているところをセブは観ていないです。最後にミアが立ち去る時も、旦那さんと話しているところ、旦那さんが先に歩いていくところは、セブは顔を伏せたままだったので見ていない可能性が高い)
そういう、家庭を作る……ふつうの人としての人生を生きるという点でいえば、ミアのほうが満たされているように見える。
仕事も家庭も両立できているじゃん! っていう……。
セブは仕事では成功していても、家庭を持ったり、新しい恋人を作ったりしていない。
不平等だよ!

まぁ、結婚とか出産という話になると、女性の方が焦る……というか、若い内にしたほうがいいと言われる事柄ではあるのですが。
もちろん高齢出産時のリスクは昔と比べると減っていたリはするようですが、世間一般的には「早くしたほうがいいっしょ」というプレッシャーがありますよね。
たぶん。

セブももしかしたらこの先、いい感じのジャズシンガーの女性とかと結婚したりするかもしれませんが、少なくとも作品の結末時点では仕事一筋でしたね。

男の方がつらいですよ。
しかも、5年後のミア、めちゃくちゃ綺麗なんですよね。
もちろんミアは初めから綺麗なんですけど、大人のイイ女の魅力がすっげー出てきてる。
一人産んでもなお、こんなに美しいのか!
ミスチルのoverって歌に「いつか街で偶然出会っても 今以上に綺麗になってないで」って歌詞があるんですよ。
僕は基本的にミスチル好きじゃないんですけど、このラインだけは、他の人は書かないし、かつ、すげー共感してしまうんです。
この歌詞をかなり体現していると思います(笑)。
しかしミアがああして綺麗なのも、物語上必要であったと思います。
ミアが落ちぶれていたり、美しさを失っていたら、男観客にとってちょっとした救いになり得てしまったはずです。
セブからしたら、「また俺が応援しなければ!」という情が湧くかもしれませんが(笑)。
やっぱりあそこは男の方がつらいですよ。

・ミアの旦那
ところであのミアの旦那って一体どんな人なんでしょう。
映画の中では彼の人となりについて、具体的な言葉で表現されることはありませんでしたね。
ただ見た目から想像できるのは、ミアよりも一回り近くは年上なのではないかということ。
顔にしわが刻まれていることからそう見える、というだけの話ですが……。
ただ、年上ではありつつも、とても清潔感のある身だしなみでしたね。
立ち振る舞いを見ていても、グレッグのようなベビーフェイスで強引そうな人でもないし、グレッグの兄貴のように自分の話ばかりを延々続けるようなタイプでもない。
ちゃんとミアの意見を聞いて、彼女の意思を尊重している。
嫌味のないいい人っぽいんですよ。
ですが、それが嫌です!!!!!
ひどいよミア……。

それはそれとして、大スターに上り詰めたミアと結婚しているということは、おそらく彼も社会的には成功を収めている人物なのではないでしょうか。
でないと、ミアと出会うことすらないでしょうからね。
また、ジャズクラブにミアを誘ったりすることから、ちょっとインテリジェンスな人っぽさも感じますね。

ただ、どこかセブやキーストは違う感じがするというか……グレッグやグレッグの兄っぽさも感じなくはない。
旦那さんは多分何かを作るタイプの人ではないんじゃないかと思います。
ミアと映画業界で知り合ったのだとしても、おそらくプロデューサーやスポンサーではないでしょうか。
ハリウッド女優が、会社経営者や投資家と結婚するパターンの多いこと……。
テレビの局アナが野球選手としか結婚しないことと同じ現象ですよ……。
そして、結局後に離婚することもまた多い!
セブが、パリへ行くミアと遠距離恋愛を続けていたり、その後結婚したりしていても、後に離婚してしまう可能性は高かったでしょう……夢のない話ですが。

・二人が出会えていなければ夢は叶わなかった
映画の冒頭の30分……最初の冬編で、二人が夢を追っていること……そしてその道のりがとても険しく、二人が夢を掴める望みは薄いことが描かれました。
そして二人が出会い、セブはミアに「自分で脚本を書けよ。そうしたらオーディションとはおさらばだ」と提案しました。
ミアはその進言のとおり自分で一人芝居の脚本を書き、自分で演じ、そこで見初められて映画オーディションに招かれます。
その映画は脚本が用意されておらず、撮影地のパリに集まってお話を決めていくというものでした。
ミアはその自作自演の能力を買われたのです。
ミアが自分自身では気づいていなかった創作能力は、セブによって開花したのです。

セブは、古いジャズに固執する頑固な男でしたが、ミアの考えたキャッチーなロゴと名前を店につけます。
また、キースによる「稼げる」バンドの仕事にどっぷり浸かっていたころ、ミアに「あなたが人からの評価を気にするの?」「あなたはあの音楽好きじゃないかと」という言葉によって、再び自分の夢に向かって進む覚悟を持ちます。
そもそも、キースに連絡をするように進言したのもミアなら、「お金を稼がないといけない」とセブに思わせたのもミアです。
セブとミアは別れてしまい、セブはバンドで稼いだお金の使い道を失くしたようなものですが、おそらくそのお金をセブズの開店資金に充てたのでしょう。
作中では具体的に言及されていませんが、「お金」という現実を描いた作品なので、お金が急に湧いて出てくるわけありませんからね。

二人とも、互いに影響を与え合った結果、夢を掴むことができたんです。
いや……いい話ですよ。

・英雄の旅
セブが主人公っぽいなと思うのは、やはり、セブがオーソドックスな英雄譚をなぞるように行動したからです。
おおむね英雄の旅というのは、以下の流れです。

自分の暮らす村に危機が忍び寄る。

英雄が村を救うために旅に出る

英雄、旅に出た先で様々な苦難に見舞われる

英雄、生死の狭間をさまよう。(この時実際に死んだり、怪物に飲み込まれたりする)

英雄、奇跡的に復活を遂げる

最大の難関を乗り越える

英雄、特別な知恵や魔法のアイテムを持ち帰り、村の危機を救う

もっと細分化することもできますが、おおざっぱに説明すると、こういうものですね。
チャゼル監督は、セブの台詞を通してかなり直接的に、セブが英雄であることを観客に示してみせます。
ジャズは今死にかけていると。
セブは、ジャズという村を救うために旅立った英雄なのです。
この映画では、セブは失敗してしまえば、ジャズは絶滅してしまう存在として扱われていたんですね。
セブ以外の誰かが「セブ、なんとかせねばジャズは滅んでしまうぞよ」とか言ってくれていれば、そこのところがもっと強調して伝わったかもしれませんが……うぅん、そう考えるともうちょっと上手くやりようがあったのかもしれないですよね。ララランド。
けど「ジャズの存亡をかけた戦い」が主眼ではないのだし、今の在り方がベストな気もしますね。
難しい……。
なんか、チャゼル監督作品の、「メンター」的存在のなさって、監督自身の経験から来ているんじゃないかという気もします。
これまで監督の前に、自分の夢を後押ししてくれる年上の人がいなかったんじゃないかなぁと……。
(関係ありませんが、モアナと伝説の海というディズニーアニメが、おそろしいほどオーソドックスな英雄の旅でしたね)
(あと、最近ビジネス界でも普通に「メンター」という言葉が使われますよね。行進を育成する立場の人を指すことが多いですが。これって、勝間和代さんと神田昌典さんが、「神話の法則」という本をビジネス界に紹介したことが源流ではないでしょうか?)
物語の途中で、「敵に飲み込まれる」という描写は、けっこうよく使われるものなんですね。
ピノキオがくじらに飲み込まれてしまうシーンを思い出してほしいです。
あれはとてもわかりやすいです。
もうちょっと間接的な表現だと、敵の基地に取り残されてしまう、というようなものもありますね。
要するにそれは、主人公にとっての絶体絶命のピンチなわけです。
で、英雄と言うのは、絶体絶命の逆境を切り抜けていくわけですね。
特に、敵に「飲み込まれた」時などは、特別な何かを手に入れて脱出してくることが多いです。
こう書くとお分かりになる人も多いかもしれません、セブはキースという敵に飲み込まれてしまいます。
その結果、ミアという最大の理解者であり恋人を失うという最大のピンチに見舞われますが、蘇ります。
そしてキースとのかかわりの中で得た「巨額の報酬」を手にして脱出してくるんですね。

英雄は時に、本当に死んでしまうかもしれません。
ですが彼が本当の英雄なのであれば、蘇ることができるんですね。
もちろんその蘇りに際して、それまでの冒険で得たアイテムや知恵や仲間の助力などがあるかもしれません。

結果的にセブは、旅から無事に帰還し、ジャズを絶滅の危機から救うのです。
お金がなければ、店を持つことはできませんでしたからね。
また、セブが「お金を持つ」ことに本気になれたのはミアのおかげ……。
ちょっとこの点については、消化不良気味ではあるので、詳しくは後述します……。

・携帯電話がなさそうで、ある世界
解説の方で何度か言及しましたけど、物語の中で「携帯で連絡取れば済む話じゃない?」というところがいくつかありますね。
ミアがセブとの約束の日に、グレッグとの食事に行ってしまうシーンとか。
今日び、待ち合わせをする時に相手と連絡先を交換しないなんてこと、考えにくいですよね……。
あと、セブがミアの舞台の日に、バンドの撮影に参加しないといけないシーンとか。

あと、他の人が指摘していたことで、セブとミアが別れた後のお互いの動向を全然知らないというのは不自然だという話。
別に分かれた後でも、SNSで相手と繋がりを持っているなんていう話はふつうですよね……。
まぁ、別れたらそこの繋がりを絶つって話もザラにあると思うのですけど。
特にセブの方は、スマホを持っててもSNSやってないなんてことはありそうですしね。
しかしセブもメジャーで活躍しているバンドのメンバーだし、セブが脱退したらそこそこニュースにでもなりそうなものですけどね。
ミアも大作映画への主演が5年も続いているのであれば、その結婚や出産は大きなニュースになるはずでは……。
さすがに映画のニュースを逐一チェックすることのないセブでも、そんな大きな知らせであればどこかで目にしてしまいそう。(考えてみると、セブの部屋にはテレビも置いてなかったですね)
強情なセブのことだから、ミアの情報が入ってきてしまいそうなルートは全てシャットアウトしている、なんてこともありそうですけど。

まぁ、ミアがセブのバンド脱退や、店を開店したニュースをしっていたとしても、住所までは知らないでしょうしね。
お店に入って、そこが「セブズ」だったら驚嘆するでしょう……不自然ではないです。
セブにしても、ミアが結婚したことやすでに子どももいることを知っていたとしても、彼女がお店に来ていて、切なそうな目で見上げていたら、あんなリアクションにもなりますわ……。
SNSが存在していたとしても、物語に矛盾があるわけではないですね。

・二人の世界
宇多丸さんのラジオを聞いてて、「おお鋭い指摘だ!」と思ったのが、チャゼル監督の作品は主人公と誰かの二人だけの世界じゃねーか! という話でした。
主人公と、関係する一人の相手との関係の濃密さが描かれる映画。
そこは批判されているポイントでもありますね。
たしかにそうだと思います。
ですが、二時間で描き切るにはこれしかないんじゃないのか、と思います。
ララランドって本当に無駄なシーンが無くて、二時間ほとんど、意味のあるシーンが連続しているんですよね。
情報量がかなり高い。
まぁ、僕もあまり頭のいい人間ではないので思いつけないだけかもしれませんが……。

ですが監督自身、それは意図してやっていることではないかとも思います。
なぜなら、二人が街を歩くシーンでは、ほとんどの場合、セブとミアしかカメラに映っていません。
意識しながら観返してみてほしいのですけど、本当に一人も歩いていないんですよ。
車が通ったりすることはあるのですが、人間が出てこない。
それはつまり、監督が、セブとミアの二人のことを見続ける二時間を作るための演出なんだと思うんです。

エピローグのシーンでも、そこには、セブとミアと子どもしかいません。
ホームビデオで撮影したふうの演出になっているから、「撮影者」がそこにはいるはずなのですが、それも映りません。
徹底して、「ミアとセブの世界」なんです。

セッションや、グランドピアノでも同じで、主人公と、主人公と濃密な関係を築く人物の二人以外は、バックグラウンドの説明がないんですよね。
どちらも主人公の家族は出てくるのですが、主人公の特性に理解を示そうとしない。
チャゼル監督がメインライターではありませんが、10クローバーフィールドレーンも、主人公と、シェルターの持ち主と、若い男性の3人しか出てこない映画ですね……。

もっとたくさんの人物が織りなす群像劇も作れたほうが作家としては有利かもしれませんが、ララランドとセッションについては、「二人の関係性を描く」がそもそものコンセプトなのだと思うんです。
中途半端な形であれば「もっと他の人物のことを描けてればなぁ」と思うかもしれないのですけど、どちらも研ぎ澄まされていて、他のアイデアを挟み込み余地を見いだせないんですよね。
チャゼル監督も、自分のクセとして「二人の強烈で濃密な関係を描くことに注力しすぎる」ことを自覚しているはず。
そのうえで、ララランドは作られていると思います。
でないとこんな演出にならない。

しかし、「二人の濃密な関係を描く」ということしかできないとしたら、あまり先は長くないかもしれないですよね。
先にも書いた前半と後半で明確な対比の構造を作るというのも、繰り返し続ければ予想できてしまいますし……。
まぁでも、チャゼル監督は天才なので、上手いこと乗り越えていくと思うんですよ

・「キッズと若者はどこだ?」
これはちょっと気になるところ……。
作中、セブはキースから辛らつな言葉を投げかけられます。
セブのジャズに向き合う姿勢……古いジャズにこだわり続けて、年寄りにしか聴いてもらえない現状について。
若いリスナーに聞いてもらえないと意味がない……キースはそう説きます。
セブはそれに言い返せません。
キースのバンドは、実際に、ライブでは若いファンをたくさん動員しています。
そこまでは、「音楽を誰に向けて作るのか」という真摯な自問自答のように思えるんです。
音楽……として作中では語られていますが、それはチャゼル監督自身が、映画を作る時にも考えていることでしょうし。
で、ちょっとだけ問題に感じるところ……というか、消化不良に感じるのは、セブが5年後に演奏している場所のことです。
セブズという、「自分の好きな音楽を演奏できる店」を持ち、そこで満足そうに暮らすセブ。
ですがそこにいる観客を観ると、若者はいないんですよね。
ライト・ハウスは年寄りのお客さんが多かったことと比べると、ミアの旦那さんのような30代~40代くらいのお客さんも入っていて、少し年齢層は下がったようには思うのですが……。
メッセンジャーズのライブのお客さんは、どこか、演奏自体を楽しんでいるというよりライブのノリを楽しんでいて音楽はちゃんと聴いていない……というような、若干否定的なニュアンスで描かれていたようには思うんです。
けど、だからといって、セブがキースの言葉に反論ができなかったことは事実ですよね。
シビアな問題ではありますが、「観客やリスナーの質」といった話はこの映画では提起されていないわけですから。
ただ、チャゼル監督がこの先に作る映画の中で、そういったテーマを持ち出す可能性はありそうですよね。
セッションでも、主人公が親戚と食事をしていて、「音楽の良し悪しに順序付けなんてできないだろ?」と言われてしまうシーンもあったくらいですし。
ただ、ララランドでは、提起された問題に対する答えが提示されていない。
そこが不満です。
だって、セブは自分の好きなオーセンティックなジャズをプレイできる店を持ちましたけど、それが果たして「ジャズを救う」ことに繋がるでしょうか。(そういえばキースは「ジャズを救うとお前は言うが~」と言っていましたけど、作中ではキースの前でセブはそんな発言はしていなかったですよね。きっとセブは学生時代からずっとそのことを言い続けてきたんですね)
ロサンゼルスの片隅に、決して大きくはないレストランを作って……今この時代に、そんな一つの店の中を作っただけで、ジャズが広く一般で親しまれる音楽になるのでしょうか。
無理ですよね……。
それこそメッセンジャーズに留まって、バンドの中でセブの思う「ジャズ」な曲を発表していくとか、バンドに身を置きつつサイドプロジェクトとしてジャズバンドを始めるとか……バンドを脱退したとしても、メジャーの流通でジャズをやり続けるとか、他にもやり方があるはずだなぁと思いました。
この点に関しては、なにか一つか二つシーンを足せば解決できる問題じゃないかと思います。
冒頭のカフェのシーンでは「有名な女優よ」と言っている誰かがいましたけど、セブの店の前で「有名なバンドのピアニストのお店よ」と言っている人がいるとか……。
それは旦那さんでもいいかもしれないですよね。
「有名なバンドで活躍したピアニストが開いた店なんだ。前から気になっていたんだよ」って言うとか……。
監督としては、セブがメッセンジャーズから持ち帰ったのは「お金」だけということにしたかったのかもしれませんけど、あの活動を通して「知名度」とか「人脈」を得たという描写があってもよかったと思うんですよね。
うーん……難しい……。
まぁ、単に「ニューヨーク・ニューヨークのシーンをコピーしたい」というお話なんだと思うんですけどね。

ただ、思うのは、チャゼル監督自身も、「古き良きハリウッド・ミュージカル映画を蘇らせたい」という野望を持っていて、それを達成させることができるかわからない状態でララランドを作っていたはずなんですよね。
もちろん、セッションの成功を受けて制作にこぎつけることができたわけですけど、実際にララランドの企画は配給会社から門前払いを受けていたそうですし。
そんな自分の状況と、セブの状況を重ね合わせて作っていたと思うのです。
そんな、自分自身が成功できるかどうかわからない状況で、作品の主人公を圧倒的な成功を収めさせることに抵抗があったのかもしれません。
オーセンティックなジャズ・レストランを開いて、そこには若者も多く来店して、ジャズの素晴らしさを体験している……というような図。
そこまでやってしまうと、「都合良すぎじゃないか?」と観客が違和感を覚えてしまうかもしれないですよね。
実際に自分が成功していない状態で、答えを出そうとすると無理が生じてしまう気もしますし。

しかし監督は、ララランドで破格の成功を収めました。
アメリカではどんな客層に受けたのかはわかりませんけど、僕が10回映画館に行った印象だと、女性は10代から老人層まで幅広い年齢層のお客さんがいましたね。
対して男性は、けっこう年配客が多かった印象……若い人が足を運んでいる感じではなかったかなぁと。

作中で提起された「若い客はどこだ?」という問い……また、「ちゃんと作品を向き合っている客・向き合っていない客」といったような問題については、今後の作品で描かれるかもしれませんね。

・セッションとララランド
もともとララランドの企画があったけれど、「ミュージカル映画なんて今どき流行らない」と資金提供を受けることができず、先にセッションを作ったという経緯があります。
そのため、セッションは、ララランドからのアイデアの流用が多いです。
また、面白いのが、セッションはララランドの先までを描いているように見えるところです。
ララランドでは、セブとミアの別れ……そしてその後の再会という、2つのシチュエーションに向けて物語が進んでいきます。
再会した二人は、かつての蜜月を思い出して、ひと時だけの甘い愛の夢を見ます。
セッションでも二人は別れ、再会します……が、その先が少し違います。
鬼指揮者に陥れられた主人公は、しかし、音楽への狂気的な信奉からステージに戻り演奏を続けます。
彼は大衆の前で恥をかかされたことで傷ついた自尊心や、指揮者に認められたいという承認欲求をかなぐり捨てて、誰にもマネすることのできない素晴らしい音楽を演奏したいということしか頭にないのです。
そして鬼指揮者はそんな主人公を見て、自分の望むような最高の音楽を、主人公とならば作れるのではないか……そう直感します。
二人は「狂気」を共有することで、他の誰とも結ぶことのできなかった強固な絆を作り上げたのです。

まぁ……要するに、セブはミアと狂気の共有ができなかったということですね。
そしてミアはもともと狂気を抱いていなかったんだと思います。
そう考えると、ミアは仕事での成功と、家庭を築くという幸福を手にしたわけですけど、「映画」や「女優」という共同体を救ったわけではないですよね。
少なくとも作中でそういったことへの言及はありませんでした。
やっぱり、そういうところが、僕がセブを主人公だと思っていたところなのかなぁ……ミアには「使命」がなかった。
まぁ、セブの持つ「使命」も、自分で思い込んでいるだけのものだった気もしますが。

ただ、一般的な通説としても、「男は自己実現の欲求が強い」という話もありますね。
誇大妄想的とも言えます。
対して女性は、あまり高望みをしない。
男性作家と女性作家の違いにも、そういうのってあらわれている気がします。
やはりここも、セブを主人公と見るか、ミアを主人公と見るか……という違いになってくるのでしょうなぁ。

一歩踏み込んで邪推してみると、「恋愛」という形で結ばれたチャゼル監督とジャスミンさんは離婚してしまいますが、
「ミュージカル映画を作る」という野望で結ばれていたチャゼル監督とジャスティン・ハーウィッツさんは、お互いに31歳でアカデミー賞を受賞するという偉業を成し遂げます。
この二人は狂気を共有しているのではないでしょうか……。
やっぱり上手く出来ています、ララランド……。
ところでジャスティン・ハーウィッツさん、ウィキペディアによると、なぜか脚本家でもあるとのこと。
なぜか、ザ・シンプソンズでも1エピソードを担当しています。
どういうことなんでしょう……?
しかし曲の構成を考えるということと、脚本の構成を考えるということは近いのかもしれないですし、全くの異業種ということではないのかもしれませんね。

・セブはミアのどこを好きになったのか
ちょっとこれは自分で答えが出ていない疑問なのですが……。
セブっていったい、ミアのどこを好きになったのでしょう?
ミアは単純明快で、セブの弾くピアノに惚れた。
そしてセブのことを知ってみると、他の男たちには感じない情熱的な一面を持っていて、さらに惹かれたと考えられます。
対して、セブは、ミアのどこを好きになったのでしょう。
映画の中で、セブがミアのことをうっとりと見つめているシーンはないんですよ。

映画の中で直接的な描写がないので、はっきりとはわからないんですよ。
なので、かなりこじつけっぽくなってしまうんですけど……。
セブは、孤独な自分に興味を持ってくれる女性であれば、誰でも良かったんじゃないでしょうか。
自分はジャズが好きで、ジャズを復活させることに命をかけている……けれど、ジャズの演奏できるところなんてない。
ビルのレストランは首になってしまうし、自分に話を持ち掛けてきた男は行方をくらましてしまった。
孤独だったはずです。
そんなところに、自分の演奏に聞きほれる女性がいた……。
「自分を受け入れてくれる」ところが好きだった、ということだったのではないでしょうか。
セブが、ミアを射止めるために実際に行動を起こしたのは、二人でダンスをした次の日(?)にカフェに突入するシーンだと考えられます。
その間セブとミアが接しているのって、クリスマスのレストランの一瞬と、パーティ会場と、帰り道だけなんですよね。

帰り道に二人がダンスを踊る時に、ミアが

わたしは絶対あなたに恋したりしない
こんな夜景にうっとりするのはきっと
ヒールの靴を履いたりしない子ね
ロマンスが始まるチャンスはあると感じているような
女の子になら効き目があるかも
だけど私は本当に何も感じていない

と歌っていますが……セブこそが、「恋のチャンスを待っている子」だったんじゃないのかなぁと。
自分で書いてて、けっこうこじつけっぽいですね!
ただやっぱり、作中で描かれていることからたぐりよせていくと、セブは「自分のメロディを好きになってくれた女の子」を好きになったというふうに見えるんですよね。

・神様の出てこないハリウッド映画
この映画からはまったくキリスト教の気配がしないのですが……気のせいでしょうか。
いくつか偶然的な描写はありますが、起こっても全然不自然ではないものばかり。
神に祈るシーンもなければ、奇跡も起こりません。
登場人物たちは自分たちで生きる道を切り開いていくのみなのです。

見城徹さんが、「戦争もないし学生闘争もない。宗教もないこの国では、人は恋愛から生き方を学ぶしかない」という旨の発言をされていて、かなり感銘を受けたんです。
確かにそうですよ……。
今、世界中で、宗教を信仰している人って減っているみたいですね。
インターネットがあって、誰もが同じ情報にアクセスできるようになっていますからね。
宗教を信じようにも、その宗教の矛盾を暴いたり入信するデメリットがすぐにわかってしまうわけですからね。
やっぱり減るでしょうね。
神様はいない、魔法もない、奇跡も起こらない……そんな時代を生きる我々にとって、ララランドのようにストレートに「恋と夢と仕事」を描いた映画は刺さって当然ですね。
個人的に、さらに感動するのは、この映画にはセックスとバイオレンスもない。
愛と、夢(≒仕事)だけで、映画はこんなにも輝く……それを証明してくれたところにあります。
すごいです……。

おわり。

 - ララランド, 映画

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LA LA LANDのすべて 夏と秋

LA LA LANDのすべて 夏と秋 ・脚本を書き始めたミア 夏は、ミアがノート …

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ビニール傘を肩にポンポン当ててイキった男性がサイコバニー着たお兄さんにケンカ売ってた 220817

雨の天気予報だったけど晴れてたので、洗濯物を干したら日中でからっと乾いてくれた。 …

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【ホラー/カルト映画の金字塔】ウィッカーマンと、柏木ハルコさんの『花園メリーゴーランド』

ずっと前から気になっていたのですが、やっと観ることができました! ウィッカーマン …

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シン・エヴァンゲリオン劇場版を観て思ったこと全て 序

感想と考察を書きます! しかしながらSFや特撮、宗教や心理学、神話についての知識 …

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#きっとほし

きっと、星のせいじゃない きっと、星のせいじゃないという映画を観てきました。 ア …

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ダンサー・イン・ザ・ダークを傑作たらしめたビョークの決意

言わずと知れた傑作映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』。楽曲制作・歌唱・主演を務め …

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【童貞スーパーヒーロー】キャプテン・アメリカ ファースト・アベンジャー

観た後の感想と考察をざっくりと書くエントリです。 ネタバレは当然あるものと思われ …